2012年10月3日水曜日

[説教要旨]2012/10/07「神の国を受け入れる人とは」マルコ10:2-16

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 創世記 2:18-24 【旧約・ 3頁】
第二の日課 ヘブライ 1:1-4,2:5-13 【新約・ 401頁】
福音の日課 マルコ 10:2-16 【新約・ 81頁】

 十字架へと向かうそのエルサレムへの道の途上で、主イエスは結婚と離縁について問いただされる。社会の倫理的価値観が大きく変化する中、伝統的なモーセの律法をどのように現実生活に適応あせるかを巡ってユダヤ社会では様々な派閥が生まれた。本日の箇所の質問者も、主イエスをいずれかの派閥に分類し、非難しようと企図していたかもしれない。しかし、主イエスはその質問に対して、謎のような、肯定か否定か、明確にならない応えを返される。果たして主イエスは何を語ろうとされているのだろうか。主イエスの答えは、この世界と人とを造られた、創り主である神の御心を最優先とすることで、質問に対して強く否定しているように思われる。しかしその否定はむしろ質問そのものに対して向けられており、その論点は既に最初の問いから離れ、別の問いを新たに提示している。すなわち、そもそも神が創られた命のあり様に対して正誤・合否を問うことが、果たして神の御心に適ったことなのか、モーセの律法つまり聖書の文言ですら、それは正誤と合否を自ら決めずにはいられない、人の心の頑なさによるものなのではないのか、という問いを主イエスは投げかけている。その問いが投げかけられた相手は、かつてのユダヤ人、ファリサイ派、律法学者らだけなのではない。それは現代において福音書に触れる私たちたち自身に対してもまた投げかけられた言葉なのである。
 この論争に続いて、今度は弟子たちが子どもたちを主イエスに近づけようとした人々のことを叱る、という出来事が報告される。礼儀を知らず、場をわきまえず、為すべきことを求められる水準で果たすことの出来ない存在、それが古代ユダヤ社会における子ども理解であった。弟子たちにとっては、そのような存在が師を煩わせ、教えを邪魔することは、聖なる場を汚すことであると考えたのであろう。その憤慨は妥当であるようにすら思われる。ところが、主イエスがその憤りを向けられたのは、無分別な子どもたちに対してではなく、むしろ分別ある主張をしたはずの弟子たちに対してであった。
 神の造られた命の間には、何ら差違も優劣もありえない。命に優劣と序列を付すのは、むしろ分別と十分な社会的能力を持つ人間であることを主イエスははっきりと語られる。神の国の価値観、神の創造の秩序においては、命のあり方に「唯一の正解」などは存在しない。それぞれのありようが、それぞれの命の答として、固有の価値を持つのである。それゆえに、子どもの様な弱く足らざる存在として、与えられた命をそのままに受け入れる時に初めて、人はこの神の国の価値観に触れるのである。まさに同じ意味で、主イエスが十字架の死と復活を通して私たちに与えられた「神の国」もまた、ただ主イエスの十字架に頼るしかないもの、自らの弱さと不足を受け入れるものにこそ開かれている。未熟さ、足らざる事、そして弱さと不完全さを受け入れるものこそが、まさに神の国にふさわしいものなのである。

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