2012年9月22日土曜日

[説教要旨]2012/09/16「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 ヤコブ 3:1-12 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 8:27-38 【新約・ 77頁】

 次々に大国の支配を受けることとなったイスラエルは、大きな力をもつ「異邦人」によって自分達が汚されることがないように、その宗教的自由と政治的独立をねがうその思いを強めて行くこととなった。それはやがて、ダビデの家系から生まれ、ユダヤの民のためにエルサレムを異邦人から清め、ダビデの王国を以前にまさる栄光と繁栄をもって再興する、地上の支配者「メシア」を待望することとなった。
 本日の福音書は、主イエスが「メシア」つまり油注がれた者「キリスト」であることを巡って二つのエピソードが語られている。前半では、弟子たちの筆頭と見なされたペトロが主イエスに対して「あなたは、メシア」ですと宣言する、いわゆるペトロの信仰告白と呼ばれる出来事が語られる。主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いかける。弟子たちは人々の評判をつたえると、主イエスはさらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問う。この問いに応えて、ペトロは「あなたは、メシアです」と語る。それは、地上の様々な支配者の中でも、今目の前におられるこのイエスこそが、私たちの「メシア」油注がれた者であることを言い表すものだった。しかし、そのようにまさに模範的な答えをしたペトロが、本日の福音書の後半では、主イエスによって「サタン、引き下がれ」と叱責されてしまう。
 主イエスからペトロは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責される。非の打ち所の無い、正しい告白をなしたはずのペトロに、何が欠けていたのだろうか。その答えは、この二つのエピソードを結ぶ、主イエスの教えに込められているということができる。それは、主イエスのご自身の、十字架における死と、その死からの復活であった。
 ペトロはたしかに、この世の支配者の全てに優るメシアとして、主イエスを選びとった。そうであるからこそ、主イエスが語ったことを、敗北宣言と理解不能な言説としてたしなめることとなった。それはいわば彼の自らの正しさを保証するものとして、主イエスという存在を、メシア=キリストというものを捉えていたのである。しかし、主イエスが、メシア=キリストであるのは、そのような人々が期待するような地上の支配者として君臨するためでも、聖なる場所を汚されないように、異邦人を駆逐するためでも無かった。むしろ、全ての人の苦悩、痛み、嘆きを自らの身に受けるために、そしてそれにもかかわらず、新しい命の道を示すために、十字架と復活への道を歩むこと、それこそが、メシア=キリストとしての使命だったのである。
道徳的な正しさというマントを着ているとき、人は「良い」と信じていることを無慈悲な手段で行うことに罪意識を感じることが無くなってしまう。しかし主イエスは、正しさによって人を支配するのではなく、人が生きるその苦しみ、悩み、嘆きを、ご自身の十字架において受け取るために、この地上へと与えられた。そしてさらに、その苦悩と嘆きは行き詰まりのうちにはおわらないこと、その先にはなお新しい命の道があることを、その十字架からの復活によって私たちに示された。そうであるならば、自らの正しさを捨て、自らの十字架を背負うということは、復活の命への希望を抱く事なのである。

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