2012年9月15日土曜日

[説教要旨]2012/09/09「この方のなさったことはすべて」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 イザヤ 35:4-7a 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 2:1-10、14-17 【新約・ 422頁】
福音の日課 マルコ 7:24-37 【新約・ 75頁】

本日の福音書の冒頭で主イエスはガリラヤから国境を超え出る。その地域の住人は、都から見れば、異邦人、ユダヤの掟と信仰を共有しない人々であると見なされていた。冒頭では主イエスは「誰にも知られたくないと思っておられた」と書かれているので、宣教のためではなくむしろ休息のためにガリラヤを離れられたのかもしれない。しかしその主イエスのもとを悪霊に悩む娘を連れた一人のギリシア人の女性が訪れる。今日「悪霊」と聞くとオカルト的な印象を受ける。しかし古代ユダヤでは病の原因となるものが何なのかはわかっておらず、病は人の目に見えない何らかの力によって引き起こされていると理解した。アレクサンダー大王、そしてさらにローマ帝国が広大な領土を支配したことによって、人々の知らない病が各地にもたらされたであろうことは想像に難くない。そうした自分達の知識では対処できない様々な病を前にして、人々は悪霊の力によると理解した。医学も未発達で信頼出来ない時代、この女性はもはやどうすることもできず、最後に主イエスを捜し当てる。
主イエスは娘を癒されるが、注意深く読み返すならば、娘自身が主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたと宣言したわけでもなく、ただ母の思いが主イエスの癒しの力を娘のところへと届けることとなったことに気付く。そこには「救いに与る条件はあるのか」という問いがある。続く31節からの箇所ではそのことがさらに明確となる。ここで登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」は主イエスのもとに連れてこられるだけであって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいないにもかかわらず、主イエスはその人を癒されたのだった。自らは全く積極的には動いていないこの二人が癒され救われたのは一体なぜなのか。
この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとある。深く息をつくというこの言葉は「呻く」という意味で用いられることもある。主イエスいわば、天を仰いで「呻き」を
あげられたのである。主イエスは、地上で生きる人々の苦悩と痛みを主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを主イエスが天に向かってあげられたのだった。そして主イエスがあげるの呻きは、人が線引きをした国境を越えて、この地上に生きる全ての人の苦悩と痛みを受け止められるものだということを聖書は伝える。主イエスはこの後、まさに,全ての人の呻きを身に受けるために、十字架への道を歩まれることとなる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出されたのだった。主イエスの癒しと救いの業を前にして、人々は口々に「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と語る。この言葉は、創世記1章で、創造された世界を神がご覧になった際の「見よ、それは極めて良かった」という言葉を思い起こさせる。主イエスの癒しと救いの業はまさに新しい命の創造の出来事であった。主イエスの十字架と復活の出来事は、この地上に生きる私たちに、神の福音は、新しい命の恵みは与えられていることを伝えるのである。

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