2012年9月4日火曜日

[説教要旨]2012/09/02「人間の戒め、神の掟」マルコ7:1-8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 申命記 4:1-2、6-9 【旧約・ 285頁】
第二の日課 ヤコブ 1:17-27 【新約・ 421頁】
福音の日課 マルコ 7:1-8、14-15、21-23 【新約・ 74頁】

 主イエスの時代のユダヤは、それまではあたりまえであると思っていたものが次々と失われていく混迷の時代であり「正しさ」「清さ」の名の下に排外主義と暴力を正当化する空気に満ちていた。しかしその中で、主イエスは人々に「神の国」の福音を伝えたのだった。
 本日の福音書の冒頭では、ガリラヤで活動する主イエスを、政治と信仰の中心であるエルサレムからやってきた宗教的な権威を持つ者たちが問い詰める場面から始まる。彼らの権威は、神の掟である律法を守るための「垣根」として「昔の人の言い伝え」を守ってきたことであった。その一つとして、ここでは「手を洗う」ということが問題となる。そこには衛生的な理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清める意味が込められていた。この「汚れた」という言葉は「世俗の」という意味であり、もともとは「共有の」「分かち合う」「交わる」という意味の言葉である。手を洗うという行為は、自分達が異なる生活様式を持つ者との交わりを汚れとして避けることを意味していた。とりわけ、旧約と新約の間の時代に起こった民族主義的色彩の強い戦争の時に、この「交わり」を「世俗の汚れた」ものであるとする理解が強まることとなった。しかしながら、この「世俗の」あるいは「汚れた」という言葉は、使徒言行録の中で最初の教会の理想的な姿として語られている。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」(使2:44)の「共有にした」という言葉は、「世俗の」「汚れた」という言葉と同じなのである。
 たしかにそれは、「言い伝え」の遵守に誇りと尊厳をかけていた者たちにとっては、その垣根を超え出ることは、「世俗」にまみれ「汚れる」ことに他ならなかった。しかし主イエスは、神の国の福音は人の造った垣根の中に留まることは出来ないことを宣言される。神の掟において、神が造られたものは全てが良いものであり、全てが清い。人がそこに垣根を作り、人の思いがそれを「汚れた」ものとしてしまうにすぎない。それこそが主イエスの伝えたメッセージであった。この7章を読み進めていくならば、主イエスが垣根を超え出て、、いわゆる異邦人の土地で神の国の福音を告げられたことを知ることとなる。
 主イエスはやがて都エルサレムへと向かい、そこで、垣根を超え出たものとして、十字架に付けられて処刑されることとなる。都の政治と宗教の権威者達から見れば、それは垣根を超え出た者の辿る当然の末路であった。しかし、世界と命を造られた神は、主イエスをその十字架の死から甦らされた。この地上の人間の造ったあらゆる垣根は、主イエスの十字架によって乗り越えられ、神の国の福音は、あらゆる人のもとへ無条件に与えられた。主イエスの十字架は、私たちを互いに対立させ憎悪させるものではなく、私たちを和解させ、分かち合いへと導く救いのしるしなのである。
 自分に失われたものを取り戻すため、人の戒めを振りかざし、「『正義』の名の下に加罰感情を沸騰させる」時代を今私たちは生きている。しかし、主イエスの十字架は、私たちに和解と分かち合いの道を示す。和解と分かち合いをもたらす十字架こそ、私たち与えられた神の掟なのである。

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