2012年8月4日土曜日

[説教要旨]2012/07/29「キリストのしるし」ヨハネ6:1-21

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記下 4:42-44 【新約・ 583頁】
第二の日課 エフェソ 3:14-21 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:1-21 【新約・ 174頁】

福音書に描かれた奇跡物語は、現代人にとっては聖書を理解することを難しくさせているとも言える。しかし聖書が伝える主イエスの驚くべき業の本質とは、それが私たちに対する神の憐れみ・慈しみの業であり、欠乏や悲嘆などの人間の苦難の中に働くことなのである。主イエスは地上に生きる私たちの苦難のただ中に神の愛の業を実現されるのである。本日の福音書ではまず五千人の供食の奇跡が語られる。この奇跡は4つの福音書の全てにおいて触れられているが、ヨハネによる福音書では特にこの出来事が過ぎ越しの祭りの近づく時であることが報告される。それは、神がかつてモーセを遣わしてイスラエルの民を奴隷の地から解放されたように、今や主イエスが、この世の諸力すなわち経済や軍事力、憎悪や差別の支配の奴隷になっている私たちを導き救い出される方であることを示唆している。また他の福音書では、大量の群衆を前に弟子たちがどうすればよいか主イエスに訴える。しかしヨハネ福音書では、主イエスから弟子に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかける。問いかけられた弟子達は現実的な分析をし、全く手の打ちようが無いことを訴える。彼らに備えられたものは僅かパン5つと魚2匹であった。しかし、いわばその問いはこの困難な状況において、どこに頼るべきなのかを問いかけていたのである。そして既に聖書を繰り返し読んでいる読者は、そのパンは天から与えられる他はなく、そのパンは主なる神が世の救いのため与えられた独り子、この問いを発しておられる、主イエスそのものであることに気付く。主イエスはそこに集まった人々一人一人を、一人の人間としての尊厳を持った客として招き、草の上に座らせる。そして今あるものを感謝の祈りと共に「分け与えた」時、そこにいた全ての人が満たされたのだった。
この奇跡に続いてさらに湖の上をあるく主イエスについてヨハネ福音者は語る。湖の上を歩く姿を見て恐れおののく弟子たちに、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられる。「わたしだ」という言葉、それは逐語的に翻訳するならば「私はある」という意味にもなる。弟子たちに対して主イエスはまたもや「私は誰か」ということを問いかけている。そしてまた、読者は「『私はある』と答えられる方、それは救い主イエス・キリストである」と思い起こすこととなるのである。
聖書が語る奇跡は、一過性の驚きではなく、過ぎ去ることのない事柄を指し示す。そして過ぎ去らない事柄とは、主イエスを通して表された救い、神の国に生きる新しい永遠の命に他ならない。この世の救いのために与えられた神の独り子、主イエス・キリストは、十字架の死において、その命を私たちに分け与えられた。そして、その死から甦り、永遠の命に生きる道を開かれた。それこそ、過ぎ去ることのない神の救いの出来事にほかならない。主イエスが示された奇跡を、ヨハネ福音書は「しるし」と呼ぶ。キリストのしるしとはこの地上の暗闇を歩む私たちを救いへと導く道標なのである。

0 件のコメント: