2012年8月6日月曜日

[説教要旨]2012/08/05「命の糧」ヨハネ6:24-35

聖霊降臨後第10主日・平和の主日

初めの日課 出エジプト 16:2-4,9-15 【旧約・ 119頁】
第二の日課 エフェソ 4:1-16 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:24-35 【新約・ 175頁】

 8月第1日曜はルーテル平和主日である。8月は67年前第二次世界大戦において日本が敗戦し、戦争が終わったことを憶える月である。しかし、多くの犠牲者を生み出した戦争の出来事は日々忘れられつつあるようにすら思われる。その一方で昨年3月11日の東日本大震災以来明らかとなってきたことは、この社会で常に優先されるのは、命ではなく利益であること、共有よりも独占であること、未来の世代を守ることよりも現在の既得権益を守ることだという事実であった。進まない震災からの復興と原子力発電所事故への対応、そして世界になお起こり続ける戦争。一見関係のないように見える、これらの事柄に共通することは、今手にしているものを独占し続けようとする思いが支配していること、それこそまさに真の平和が失われていることであることに気付かされる。私達は、真の平和を一体どこに捜せばよいのか。
 本日の日課は5000人の飢えを満たす奇跡と湖の上を歩かれた奇跡という二つの「しるし」に続いている。人々は主イエスを執拗に捜し求めて湖を渡るが、それは主イエスがパンで自分達の空腹を満たしてくれたたためであった。無論空腹を満たすことは命を守る上で最低限必要な事であり、主イエスもまた「わたしたちに日ごとの糧を与えて下さい」と祈るように教えられている。しかしながらヨハネ福音書が伝える主イエスは、単に空腹を満たすためのパンだけではない何かをここで語ろうとされる。5000人の供食が一過性の事件に終わらず、過ぎゆかない事柄を示すものとなるために、主イエスは「わたしが命のパンである」と語られる。しかしそれは、群衆達が求めているものを超えた、群衆達にとって未知の事柄であった。群衆はあくまでも、彼らが期待するような物で彼らが満たされることを望んでいた。群衆のその姿は、奇しくもかつて奴隷の地から解放されたイスラエルの民が、荒れ野での放浪に疲れ、欠乏を恐れ、奴隷として抑圧と虐待のもとで「安全」に「満たされて」暮らしていた古い生き方を懐かしむことと同じであった。
 しかしこの地上に生きる私たちに向かって、主イエスは「わたしはある。怖れるな。私が命の糧である。」と語られた。私たちが生きているこの世界は嵐に襲われ、足下が崩れ去り、戦乱によって全てが破壊されることがある。そのような世界は死の力が全てを支配し、悪が正義を押しつぶそうとしているように思い、絶望することがある。けれども主イエスはご自身こそが新しい命・永遠の命の源であると語られる。その分け与えられ主イエスの命こそが、この世界を押しつぶそうとする死の力に抗う、私たちに与えられた、真の命の糧なのである。
 永遠の命を望み、地上の真の平和を望むということは、私達が既に手にしているものをさらに増やし、利益を確実にすることなのではない。それは十字架においてその命を分け与えられた主イエスのみを信頼し、今自分が手にしているものを誰かに、あるいは今はまだ知らない誰かのために与えること、分かち合うことなのである。たとえそれが、人の目には挫折・敗北であり、無駄・無意味であるように映ったとしても、十字架は死で終わることがないことを、主イエスはその復活において示された。その命の糧である主イエスを分け与えられ、主イエスと共に生きる時、人の思いと力を越えて私たちは真の平和へと導かれる。

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