2012年8月14日火曜日

[説教要旨]2012/08/12「世を生かす恵み」ヨハネ6:35、41-51

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 列王記上 19:4-8 【旧約・ 565頁】
第二の日課 エフェソ 4:25-5:2 【新約・ 357頁】
福音の日課 ヨハネ 6:35、41-51 【新約・ 175頁】

 今週は67回目の終戦記念日を迎える。戦争という出来事から遠く離れるとき、それが誤りであることを語ることは難しくない。しかしその渦中にあった多くの者は正しいことであると信じて支え協力したのだった。戦争はいつも「正しさ」が支配している。自分の生きている世界と自分自身の正しさを失わないでいようとする時、私たちは、悲しみと苦悩の中にある者、弱く虐げられている者に対して、裁きを下し、拒否しようとしてしまう。しかしそのような姿は、あまりにも硬直化した正しさでしかない。そのような正しさを追求し、自分は正しいことを為していると信じて疑わない時、私たちは戦争に突き進むことを避けられない。
 私たちは自分が経験したことの無い事柄、あるいは自分がその価値観を共有したことのないものについて、受け入れがたい思い、拒絶し、排除しようとする思いを抱く。そうした拒否感・排除の欲求そのものは、現代の私たちだけに留まらない。本日の福音書では、主イエスが語られた「わたしは命のパンである」という言葉を聞いた者たちは、その言葉を理解することは出来なかった。主イエスの出自を知っていた彼らにとっては、自分達の経験の中で知っているイエスという男と、今主イエスが語られた言葉を結びつけることが出来なかった。彼らが知っているイエスという男、それがモーセという偉大な指導者・預言者を超えるもの、天から与えられた「命のパン」そのものであるということは、その言葉を聞く者たちにとっては、彼らの世界においては認められない、あり得るはずのない、誤った事柄であった。
 しかし、この地上に生きたイエスという男こそが、十字架にかけられ、しかしその死から甦られた方であることを、福音書は語る。人々からそんなことはあり得るはずがないと、嘲られているイエスという男が、その十字架に掛けられたからこそ、私たちはその命を分け与えられ、その復活の命をもまた生きることが出来るのである。そしてそれこそが、主イエスが語られた「わたしは命のパン」である「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と語られたことの真の意味であった。しかし主イエスの語られた言葉の真の意味を、自分達が正しいと考える硬直した世界の中に留まっていた人々は理解することが出来なかった。歴史をひもとくならば、ユダヤ社会は、強烈なナショナリズムの高まりの中で、ローマ帝国との戦争に向かい、都エルサレムは徹底的に破壊され、国は滅びてしまうこととなる。それはまさに、硬直した正しさが最終的にどこに行き着くのかということを示唆している。そしてまた、それはこの日本社会をはじめ、戦争に突き進んだ多くの国がかつて歩んだ道をも暗示している。
 命のパンである主イエスはその十字架と復活によって、硬直した正しさが支配するこの世界に平和の福音・新しい命をもたらされた。主イエスの十字架によって私達に与えられた平和と命の福音を憶えてこの8月の時を歩みたい。

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