2012年7月5日木曜日

[説教要旨]2012/07/01「人々はあざ笑った」マルコ5:21-43

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 哀歌 3:22-33 【旧約・ 1290頁】
第二の日課 コリント 8:7-15 【新約・ 334頁】
福音の日課 マルコ 5:21-43 【新約・ 70頁】

 本日の福音書では主イエスによる二つの癒しの奇跡の物語が語られる。
冒頭で会堂長ヤイロが主イエスのもとを訪ねる。会堂長とはユダヤの民が礼拝のために集まる会堂の責任を持つ信徒代表であり、その地域のユダヤ人の伝統とその権威を守ることに責任を持つ立場であった。いわば主イエスの権威とは対立する立場にあった彼は、自分の知っている伝統やしきたりだけでは娘の命を救うことが出来ないことをまた知っている。自分の知っている世界の外側にある何かを求めて、ヤイロは主イエスの前にひれ伏し「娘に手をおいて欲しい」と願う。ヤイロの願いに応えて、主イエスは彼の家に向かう。
 その途中で12年出血が止まらない女性がいたことが報告される。出血中の女性は、ユダヤの伝統では「穢れ」とされ共同体の交わりから遠ざけられていた。この女性は、病気のゆえに12年もの間交わりから排除され、社会的に死んだものとされていた。世から見捨てられ交わりからも排除されたこの女性は、世においては得られることの無かった癒しを求めて主イエスの衣服に触れる。本来であれば、この女性は「穢れた」ものとして他者に触れることを禁じられていた。しかし、彼女は主イエスへの思いからその禁を破り、その衣服に触れる。常識的に考えれば、それは誰にも知られることなく、また何の効果もないまま過ぎ去ってゆくだけの出来事であった。しかしこの女性は癒され、主イエスは振り返って女性を捜される。大勢の群衆の中から無名の一人を捜し出すことの愚かさを弟子たちは諭す。彼らにとってはこの女性の姿は未だ見えない存在であった。見えないものを見出そうとする主イエスのその態度を、あるいは彼らは心の中で嘲笑していたかもしれない。しかし振り返った主イエスは、進み出た女性と言葉を交わす。それはまさに、存在しないものとされた命が、一人の生きた存在として再び取り戻された瞬間であった。それは単なる病気の治癒ではなく、この女性が再び「生きるもの」となった瞬間であった。主イエスがこの女性へと呼びかけられた言葉が、死に追いやられていた女性に命をもたらしたのである。
 その時、会堂長ヤイロの家から、娘の死の知らせが届く。常識で考えれば、ヤイロと主イエスは少女の死に間に合わず、彼らは死に対して何もなすことが出来なかったという失敗と無力さの物語として、それは終わることとなる。しかしながら、福音書は悲嘆の声の中をさらに先へと歩む主イエスの姿を伝える。人々には、主イエスがどこへ進もうとされているのか見ることが出来ない。悲嘆から一転し人々は主イエスをみてあざ笑う。人々の嘲笑を超えて、目には見えない領域へと主イエスは踏み込んで行かれる。当時のしきたりでは穢れた存在であるはずの亡骸に歩み寄り、手を取って言葉を掛けられる。「少女よ、起きなさい」という呼びかけ、それは一つに命に向かって呼びかけられた主イエスとの出会いへの招きの言葉であった。主イエスの言葉に命は応え、少女は起き上がる。
 現代人は奇跡物語を合理的に説明しようと試みる場合もある。しかし、そうした試みは主イエスのその教えと働きを理解する上では意味がない。重要なことは、主イエスは、この世の価値観では嫌悪され、排除されているそのただ中にこそ踏み込んで行かれたということ、そしてそのただ中で、主イエスはその言葉によって命を与えられたということなのである。挫折と悲嘆の中で、私たちもまた命を与える主イエスの言葉に出会うのである。

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