2012年7月12日木曜日

[説教要旨]2012/07/08「巡り歩く主イエス」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 エゼキエル 2:1-5 【新約・ 1297頁】
第二の日課 2コリント 12:2-10 【新約・ 339頁】
福音の日課 マルコ 6:1-13 【新約・ 71頁】

 ガリラヤ湖畔で二つの癒しの奇跡を行われた主イエスは、主イエスの家族とその家族らを良く知るもの達がいる故郷の街へ弟子たちと共に向かう。マルコ福音書は3章で既に主イエスの家族に対する冷淡な態度を報告している。神への信頼と人との交わりを回復された主イエスの業と教えからすると、なぜ主イエスはそのような振る舞いをされたのか理解しがたく感じる。一方本日の箇所では、周辺のガリラヤの各地で神の国を宣教し力ある業をなした主イエスが、故郷の地では理解されないことが語られる。3章の報告とこれらの箇所を併せて読む時、それは単に主イエスが冷淡であったのではなく、周囲が主イエスを受け入れることが出来なかったことを浮き彫りにする。神の国の宣教とその力ある業は、故郷の人々が知っているイエスという人物とは結びつかなかった。彼らは自分達の理解出来る範囲の中で、自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとした。しかし神の国の福音を告げる主イエスは、彼らの知る世界には留まってはおられなかったのである。では主イエスはどこにおられたのか。
 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちに、主イエスに並ぶ働きを任命し派遣されことが報告されている。ご自身と同様の働きを託すにあたって、弟子たちが安全で快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。主イエスと同じく放浪する弟子たちは、やはり主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病を癒すのであった。このことをもって主イエスと故郷との間の溝について振り返る時、主イエスは、全てが整えられた、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかったことに気付く。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされた。それこそまさに主イエスが告げられた神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。その主イエスは常に、悲しみと苦しみの中にある人々を訪ね、村々を巡り歩き続けた。主イエスの家族と故郷の人々は、そのような主イエスを理解することが出来なかった。おそらく彼らにとっては、自分の日常が整えられ、満たされ、全てを把握し、自分の支配の元に置くことこそが意味あることであったのであろう。しかし主イエスにおいて示された神の国・新しい永遠の命は、その延長線上にはなかった。
 あたりまえの日常が崩れ去り、今まで手にしていたものが失われる時、私たちは立ち直れない程の大きな衝撃を受ける。しかもそのような自分とは関係なく、世の日常は過ぎて行くことに気付く時、誰一人として、自分のその痛み・悲しみ・嘆きを理解することが出来ないことに気付き、私たちの悲しみはさらに深くなる。しかしたとえ世の全ての者が理解することが出来なかったとしても、ただ主イエスだけはその悲しみも痛みも苦しみも知っておられる。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれたからである。その十字架の死は人の目には、悲嘆と挫折の行き詰まりでしかない。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この地上に生きる私たちの悲嘆と挫折の中で、主イエスは私たちを訪ね、慰め、癒し、新しい命へと導かれる。

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