2012年6月5日火曜日

[説教要旨]2012/6/3「風は思いのままに吹く」ヨハネ3:1-17

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:12-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 3:1-17 【新約・ 167頁】

 本日は教会の暦の「三位一体主日」であるが、三位一体の教理について聖書の中に体系的に記されている箇所は存在しない。生まれたばかりの教会は三位一体という言葉を知らなかった。教会はその歴史の中で葛藤と問いかけを繰り返して、キリスト者達は自らの信仰を振り返り、一つの神は、創り主である神として、救い主キリストとして、慰め主聖霊として、この三つの仕方で私たちに関わられるという新しい信仰の表現を発見したのである。それはいわば聖書がその全体を通じて語っているものを指し示す表現であった。
 三位一体主日は教会の暦の前半の終わりに位置し、父なる神がこの世に御子を降されたクリスマス、御子主イエスが墓から甦られたイースター、そして聖霊が弟子達へと降ったペンテコステという、救いの歴史を総括し、暦の後半に私達の地上での生の中での信仰の成長にその視線を向けさせる役割を担う。それは私たちが現に生きているこの地上での生活もまた、主イエスの誕生・十字架と復活・聖霊の降臨という神の救いの歴史の中の一部であることを、私たちに思い起こさせる。
 本日のヨハネ福音書第3章での主イエスの言葉には、今日に至るまで伝えられている教会とその宣教の本質が詰め込まれている。主イエスに従うものとなるために「新たに生まれる」つまり新しい命に生きることが語られ、この新しい命を与えるためにこそ救い主は来られたことが語られる。そして、その救い主キリストの宣教の働きの源泉は、父なる神の限りのない愛であることが語られる。新生を巡る対話は、やがて風についての話しへと移る。霊と風は、どちらもギリシア語では同じ言葉で、目に見えないが何かを動かす力を指している。そしてまたその力は人間が定めた形によって捉えることは出来ず、その風の行き着く先はどこなのかを知ることは誰にも出来ない。「風は思いのままに吹く」。すなわち神の見えない力である聖霊の風もまた神のみ旨のままに吹く。私たちはただ、今立っているその場で風を受け止め、その風に動かされるだけである。しかし、神の見えない力、聖霊の風に動かされ、まだ見ぬ新しい道へと踏み出すときにこそ、私たちは救い主キリストに出会い、救いの出来事、すなわち新しい命の創造へと向かうのである。
 今日私たちは、あらゆることが自己責任として問い糾され、自分よりも楽をしているように見える者を非難せずにはいられない時代を生きている。そこでは弱さ・低さ・誰かに頼ることを嫌悪し、非難することが賞賛すらされる。そのような世にあって、聖書は私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを語る。三位一体という信仰の表現は、いわば聖書の全体が示す、私たちに与えられた救いの在り方を表すものである。この救いの出来事に私達触れることができるために、神は人間となって、不安と悲しみと嘆きの中を生きる私達の低みのただ中へと降られた。そして十字架と復活によって、そこに新しい永遠の命への道を開かれた。さらに聖霊の力によって、私たちを絶えず支え、押し出し、新しい永遠の命へと導かれる。それこそが、主イエスがニコデモに語られた新生に他ならない。神は私達の嘆きと悲しみの中に新しい命の息吹を吹き込み、私達を慰めと希望とで満たされる。

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