2012年6月19日火曜日

[説教要旨]2012/06/17「神の国は種のように」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 エゼキエル 17:22-24 【旧約・ 1320頁】
第二の日課 2コリント 5:6-17 【新約・ 330頁】
福音の日課 マルコ 4:26-34 【新約・ 68頁】

 本日の福音書では神の国について語られているが、主イエスは「たとえ」を用いてしか語られない。これらのたとえの意味が分かる・分からないは、知識や知的能力の高さによらず、ただその言葉に従って自らを変えて行くことのできるような生のあり方によって、初めて意味あるものとなる。その意味で、これらの神の国のたとえ話は、私たちが期待するような知識を伝えようとしているのではなく、むしろ聞き手が新しい生き方を歩むようになることを求めている。それは、私たちが今現に手にしているもの・今現に見えているものだけではなく、今はまだ見えないもの・今はまだその手元にはないものに、希望と信頼を寄せていくことのできるような、新しい生き方・新しい命への招きに他ならない。
 前半の「ひとりでに成長する種のたとえ」は、神の見えない力のもつ神秘について私たちに語る。種が芽を出し成長する時、人間ができることはただ待つことだけである。あるいはせいぜいその成長に併せて、植木鉢を変えたり、水が絶えないように留意するなど、神の力が働くことを妨げることがないようにするだけである。
 私たちが人間であるかぎり、その働きは常に未完成であり、不足のあるものでしかない。それを完成し全てを良しとされるのは神の見えない働きだけなのである。神の力はこの世界を作られた創造の力に他ならない。それは何も無いところから命を生み出す力であり、その力がいつどのように働くかは私たちの目から隠されている。この見えない神の力は過去のものではなく、今を生きる私たちに対しても注がれている。無から命を生み出し、種をひとりでに成長させる神の創造の働きは、絶望の淵であえぐ私たちを救い出す力でもある。
 後半の「からし種」のたとえは、たとえその発端においては、どんなに小さく目立たないものであっても、神の業が働くとき、結末においては、何よりも大きくなるという、神の働きの神秘と偉大さについて私たちに語る。大きな結末は私たちに既に約束されている。だからは私たちは現在の小ささに失望する必要はないという、視点と生き方の転換をこの譬えは私たちに投げかける。
 無理解と拒絶の中でひたすらに神の国の福音を語られた主イエスの地上での歩みは、見えないものをひたすらに目指すものに他ならなかった。その歩みは十字架の死によって中断させられる。目に見える成果としては、それは挫折であり、不完全なまま終わってしまうことであった。しかし主イエスは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、神の創造の業は働き、希望が必ず創り出されることを私たちに伝えられた。私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられているのである。聖書を通して私たちの思いと力と知恵を超えて、神の業は希望を創り出し、全てを良しとされるのだということを私たちは知るのである。

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