2012年6月1日金曜日

[説教要旨]2012/5/27「悲しみは喜びに」ヨハネ15:26-27、16:4b-15

聖霊降臨祭

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 使徒 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 15:26-27、16:4b-15 【新約・ 199頁】

 聖霊降臨祭は使徒言行録2章に報告されるように、集まっていた弟子達に聖霊が降り、あらゆる国の言葉で福音を語り始めたとされる。また聖霊の働きによって宣教の働きが始まったことをもって「教会の誕生日」とも呼ばれている。復活節後半はヨハネ福音書の告別説教を中心に福音書が選ばれ、教会は復活の主イエスが共におられることを憶えて過ごしてきた。しかし、それはかつて主イエスがこの地上で弟子たちと共におられた時とは全く異なる、新しいあり方によってであることをも語る。その意味で本日の福音書は、今なお信仰の旅の途上にある私たちに、古い段階への決別の時をも示している。かつて弟子たちが聖霊を受けて新たな命の道を踏み出したように、私たちも今また古いあり方に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すことを促されている。
 主イエスの逮捕・処刑に際して主要な弟子達は散り散りに逃げ去ってしまう。その後復活の主イエスとの再会を通して、彼らはまた一つとされるが、主イエスの昇天を経て再び彼らの元からいなくなったとき、彼らは世を恐れ、再び分裂の危機に直面する。そのような彼らのもとに、弁護者・慰め主なる聖霊が与えられたのであった。告別説教の中で主イエスが予告されていること、それは古今東西を問わずに、常にその信仰者の前に立ちはだかる困難の存在であった。そしてそれらの困難を乗り越える唯一の方法は、キリストにつながり続けること、そしてそれによって信仰者は一つになることを主イエスは語られる。その意味で聖霊降臨の出来事は信仰者を一つに結びつける神の働きが主イエスに従う者たちの間に起こったということであった。そしてそうであるからこそ、この時を「教会が生まれたとき」と呼ぶことが出来るのである。
 しかし聖霊を受けた弟子たちはたしかに「一つ」になるが、そこでは全く同じ文言を皆が斉一に語ったわけではなかった。それは様々な言葉、様々な表現で語られ、それらは外見上は異なるにも関わらず、しかしながら一つの事柄を語ることとなったのであった。新しい命の道とはまさにそのようなものであった。一人が支配し、一糸乱れず皆がそれにただ従うという、地上の支配者ローマ帝国の支配制度・軍隊制度ととは全く異なるあり方であった。「一つ」になると言っても、そこでは均一さが強要されるのではない。そうではなく、多様なあり方が受け入れられ、またその多様性が、慰めと励ましの言葉として用いられてゆくようなあり方なのである。それこそがまさに聖霊による交わりである教会の姿なのである。この交わりにおいては一人一人それぞれが、それぞれのあり方で役割と使命を負い、そうであるからこそ、一人一人がみなかけがえのない重要な存在となるのである。
 かつて弟子たちに注がれた聖霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たし、一つとならしめる力である。それは、死の闇を打ち破る、復活の光の力であり、過去に固執することから私たちを解放し、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

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