2012年6月13日水曜日

[説教要旨]2012/06/10「神の御心を行う人こそ」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 創世記 3:8-15 【新約・ 4頁】
第二の日課 2コリント 4:13-5:1 【新約・ 329頁】
福音の日課 マルコ 3:20-35 【新約・ 66頁】

 本日の福音書の冒頭で群衆が主イエスを追い求めてやってくる。おそらく、主イエスが共におられた人々とは2章で既に触れられているように「徴税人や罪人」であった。当時の社会における常識や敬虔さからするならば、そうした人々と食卓を囲むことは恥ずべき非常識な事であった。それゆえに、癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内の者」は主イエスを「気が変になっている」と考え取り押さえるためにやってくる。「取り押さえる」という言葉は、主イエスが十字架にかかる際に「逮捕する」という言葉と同じである。つまり「身内の者たち」の態度は、主イエスを理解出来ず敵対した者たちと同じであったと言うことができる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「外側に立つ」という意味である。したがって、この表現には、社会の常識や父祖伝来の仕事や土地を棄て、その外側に立つ者として生きる主イエスへの非難が込められているとも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都=中央からやってきた宗教的権威者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難する。
 これらの非難に対して主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と応える。そこでは確かに兄弟・姉妹・母という、私たちのよく知る家族関係を表す言葉が用いられているが、それとは全く異なる次元の絆を意味するものとして語られる。さらにこの言葉の中には当時の社会の伝統的価値観の中では決定的に重要な役割を果たすはずの「父」が欠落している。それはただ神だけが「父」である、そのような関係が私たちの間に新たに造られることを示している。それは、主イエスに従う者たちが地上を支配する権威から離れ、伝統的な価値観と社会制度の中では社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。いわば、私たちの知っているこの地上における絆は、主イエスにおいて表された神のみ心を私たちが生きることによって、私たちの理解と想像を超えたものとして新しくされるのである。
 そのような新しい絆を私たちの間に造り上げるために、つまり神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、神のみ心に従って歩まれた。その行き着く先で主イエスは都エルサレムの外の刑場で、十字架において処刑された。まさに、主イエスは、ひたすら「外側」に向かって歩まれた。しかし、その歩みはその死で終わることはなかった。主イエスは死の支配の外側へ、すなわち「新しい永遠の命」へと歩まれた。神のみ心を行う主イエスはその死から甦り、私たちに神のみ心を生きる道筋を備えられたのである。私たちは聖書が語る主イエスの十字架と復活の歩みを通して、この地上の現実がどれほど悲嘆と苦悩で満ちているとしても、そこには必ずその外側へと通ずる「命の道」が備えられていることを知るのである。

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