2012年2月18日土曜日

[説教要旨]2012/2/12「イエスという出来事」マルコ1:40ー45

顕現後第6主日

初めの日課 列王記下 5:1ー14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 1コリント 9:24ー27 【新約・ 311頁】
福音の日課 マルコ 1:40ー45 【新約・ 63頁】

今日、宣教は、それぞれの教会・信徒の置かれた状況によって、多様な姿を取らざるをえない。しかし、聖書が語る主イエスの姿、また主イエスと出会った人々の姿は、多様な宣教の形の、その根本にあるものを、私たちに物語る。結論から言うならば、それは、苦難を共にするために手を差し伸べること、そして主イエスとの出会いを通して、新たな命の出来事がそこで起こるということである。
本日の福音書では「重い皮膚病」を患う男が登場する。当時治癒が困難な「重い皮膚病」を患った者は、宗教的戒律においては、汚れた者、罪人として扱われ、共に生活することを許されないものとされた。病によって体が苦しめられるだけでなく、社会的にも追い詰められ、排除されることとなった人々の苦悩の深さは想像に難くない。しかし今この人物は、自分を押さえつけてきた、自分を苦しめてきた力に抗って、主イエスのもとへとやってきた。彼を動かしたのは、ただ主イエスに対する信頼であった。世の禁を破り、周囲からの監視と制裁の抑圧に抗って、自らのもとを訪れたこの人物に対して、主イエスは「深くあわれんで」手を差し伸べる。世のルールで言えば、排除されるべきこの人物に手を伸ばし、触れること自体がルール違反であり、主イエス自身が非難され、排除される原因となりうる行為であった。しかし、主イエスは、ご自身に寄せられた信頼へと答えるために、「深くあわれんで」手を伸ばされる。聖書の語る「深くあわれむ」ということ、それは「苦しみを共にする」という意味を含んでいる。主イエスが伸ばされたその手は、この二重の意味で病に苦しむこの人物の、その痛みと苦しみを、共に分かち合うため手であった。そして主イエスがその男に触れた時、病は癒された。
それは命を生み出された神の創造の業が、主イエスにおいて起こったということであった。それは、肉体的・社会的・霊的な、あらゆる命が、主イエスにおいて新たに与えられることを語る。主イエスとの出会いは命の出来事に他ならない。私たち人間の命を脅かす全ての力を圧倒し凌駕して、主イエスは私たちに新たな命を与えられる。その命の奇跡は、なによりもその十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示された。
聖書は「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と述べる。いわば、このマルコによる福音書において、主イエスについて最初に語り始めた人物として、この名も無き一人の病に苦しんだ男が伝えられているのである。主イエスがその苦しみを共に担い、代わりにその怒りをすら担われた、この名も無き人物こそが、主イエスについて世に告げ知らせる最初の一人となったのだった。この男と同じく、苦悩の中で今を生きる私たちもまた主イエスと出会う。その主イエスは、まさに命の出来事として私たちに出会い、私たちを深くあわれまれ、私たちに手を伸ばしてくださるのである。

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