2012年2月13日月曜日

[説教要旨]2012/1/29「イエスとは何者か」マルコ1:21−28

初めの日課 申命記 18:15ー20 【旧約・ 309頁】
第二の日課 1コリント 8:1ー13 【新約・ 309頁】
福音の日課 マルコ 1:21ー28 【新約・  62頁】

「けがれ」という概念は、日本社会の中で、様々な理不尽な差別を生み出し、容認する温床となっている。山口昌男という文化人類学者は、この概念について、「われわれ」という集団の求心力を創り出すために、排除する対象を創り出すのではないかと分析している。つまり本来排除される側に、その根拠があるのではなく、逆に排除する側である「われわれ」の側によってその根拠は創り出されるものなのである。「われわれ」の秩序や価値観の中に収まらない、少数の弱い存在は、そのようなものとして、攻撃され、排除されてしまう危険に常にさらされている。実は、清さと秩序を共有すると思っている「われわれ」こそが、攻撃と排除とを他者を傷つけることを繰り返してしまう。
本日の福音書で、いよいよその宣教活動を開始した主イエスは、カファルナウムの町の会堂で聖書を教えられる。そのことばを聞いた人たちは、主イエスが「律法学者のようにではなく、権威あるものとして」教えたことに驚く。通常、律法学者たちは昔ながらのやり方や先人達の考え方に照らして人々に律法の実践方法を教え、自分達の秩序と伝統の保全をはかった。ところが主イエスが語った教えは、伝統的な律法の解釈の枠組みをはみ出していたのである。いわば、主イエスの語ることばの説得力は伝統やしきたりの力ではなく、主イエスご自身の存在から来ていたのだった。
その主イエスに対して、会堂にいた一人の「汚れた霊にとりつかれた男」が叫び声を上げる。この男が一体どういう状態であったのかは詳しく書かれていない。しかし「汚れた霊にとりつかれている」と聖書が表現しているのは、この人が、聖なる神を中心に集まっている「われわれ」という交わりから、敵視され排除されていたことを意味している。この人を「われわれ」から遠ざけ、排除してしまう力がそこには働いている。男は、自分が排除されているこの状態を滅ぼしにイエスは来たのだと叫ぶが、主イエスが霊に命令すると、霊は消え失せてしまうのであった。
ここではイエスの教えといやしが結びつけられているが、そこで癒されたのは、いわばこの一人の男だけではなかった。主イエスが全く新しい権威をもって教え癒されたのは、むしろ排除と攻撃を繰り返す「われわれ」のあり方そのものであった。
それはいわば、その瞬間に主イエスと共に、そこに神の国が現れ出ていたのである。私たち人間の考える、あらゆる不安や恐怖を全て超えて、主イエスの権威は私たちの生きるこのただ中に神の国を実現させる。それはやがて、主イエスの十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示される。主イエスは罪人として、汚れたものとして、処刑される。しかし、そこで全ては終わることはなかった。その先に、神の国に生きる新しい命は、続いていることを、主イエスは十字架の死と復活によって示された。それはまさに、主イエスが、私たちの救い主であることを示すものであった。
私たちは、決してそれを願わないにもかかわらず、他者を傷つけ、攻撃し、排除せずにはいられない。しかし、そのような「われわれ」のところに、救い主はやってこられた。救い主は、私たちの弱さを全て受け入れて、私たちに癒しを、全く新しい世界、神の国に生きる道を与えて下さる。

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