2012年1月17日火曜日

[説教要旨]2012/1/15「キリストに出会う」ヨハネ1:43-51

顕現後第2主日

初めの日課 サムエル上 3:1-10 【旧約・ 432頁】
第二の日課 1コリント 6:12-20 【新約・ 306頁】
福音の日課 ヨハネ 1:43-51 【新約・ 165頁】

誰からも、自分は知られていない。誰も自分のことを思い出すことがない。それは、人としての存在の極めて大きな危機である。誰かが、自分のことを知っている。誰かが自分を憶えて祈っている。そのことは、私たちがまさに人と人との間で生きる存在としての人間であるために、欠かすことの出来ない事柄である。しかし自分の力ではどうにもならないような運命に翻弄され、自分を憶える人などいないと、絶望の淵に沈むことが時として起こる。その絶望の淵にはどこにも逃げ道・出口の光を見出すことは出来ないのだろうか。
本日の改定共通日課では、先週の主イエスの洗礼に続く出来事として、弟子たちが主イエスに出会うという出来事が、ヨハネ福音書から取り上げられている。ヨハネ福音書ではまずアンデレともう1人の弟子、そしてシモン・ペトロと主イエスの出会いが語られた後、フィリポとナタナエルという名前が登場する。ナタナエルは、その会話の内容から、大変に敬虔なユダヤの信仰者であったのだろうと推察されるが、彼はフィリポから主イエスについて聞き、おそらく不信と疑問を抱きつつ、その人物が本物であるかどうかを自分の目で見極めようとして、主イエスのもとを訪れる。しかしナタナエルが主イエスのもとを訪れたとき、ナタナエルが主イエスに問いを発するよりも先に、主イエスの方が彼を見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われる。ナタナエルがイエスとは何者かを知る前に既に、主イエスはナタナエルを理解しておられたのである。
この一連の弟子たちと主イエスとの出会いを振り返るとき、そこでは常に主イエスの方からの理解が弟子たちに先立っていることに気付かされる。イエスという男が何者かを知りたいと思い、イエスを見に来た者たちを、それよりも先に、既に主イエスは見つめておられる。不信と疑問を抱きつつやって来た者たちが、イエスという男が何者かを知る前に、既に主イエスは彼らが何者かを知っておられるのである。主イエスが、ご自身のもとを訪れる者たちのことを、見つめ、知り、憶え、思い起こすこと。それが、弟子たちが主イエスを求めるよりも先に、起こっているのである。それは、私たち自身のキリスト・救い主メシアとの出会いについてもあてはまる。主イエスとの出会いは、私たち自身が、キリストとは何か、誰なのか、ということを理解するよりも先に、主イエスの方が、私たちを見つめ、私たちのことを思い、私たちを憶えてくださっているのである。
救い主がこの世界に到来したということは単に遙か昔の、遙か彼方での出来事ではない。それは、まさに今という時を生きる私たちに関係のある出来事なのである。何よりも、この救い主は十字架を通して、人間のその全ての苦しみを担われた方なのです。私たちが体験する、全ての痛み、苦しみ、絶望を、全てご存じの方なのである。その救い主は、その絶望から甦り、今も生きて私たちのことを見つめ、私たちと出会い、私たちを憶えて下さっている。それこそがまさに、私たちに備えられた、絶望からの逃れのみち、救いへの光なのである。

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