2012年1月17日火曜日

[説教要旨]2011/12/25「命を照らす言葉」ヨハネ1:1-14

降誕祭

初めの日課        イザヤ 52:7-10                【旧約・1148頁】
第二の日課        ヘブライ 1:1-4                    【新約・ 401頁】
福音の日課        ヨハネ 1:1-14                    【新約・163頁】

今日、私たちは救い主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に与えられた事を憶えて祝う、クリスマスの時を迎えた。この12/25の日中の礼拝では、伝統的にヨハネの福音書の冒頭が選ばれている。マタイ福音書・ルカ福音書にはそれぞれの視点から描かれた、主イエスの誕生の様子が伝えられているが、ヨハネ福音書にはそうした物語は収録されていない。それなのに、なぜこのヨハネ福音書がクリスマスの日の礼拝のために読み継がれているのだろうか。ヨハネ福音書は「初めに言があった」から始まる。その言とは、創世記が語る「天地の創造」の時に、混沌とした中に「光があるように」と告げ、そこに光を生み出し、大地をつくり、全ての生きとし生けるものを生み出したもの、それがヨハネ福音書において「言」とされているものなのである。それはいわば、世界を創り出し、命を創り出す神ご自身にほかならない。ヨハネ福音書は、この神=言が、光であることを語り、さらにこの光である言葉が「肉となった」と語る。「肉」となるとはその光である神・言・カシコイモノが、私たちの生きているこの世界の中に与えられた、ということである。古代より降誕祭の主題は、「光」がこの世に与えられたことを憶えるということであった。それゆえに命を創り出す光が私たちのこの世界に与えられたことをこの時に憶えてきたのである。
命の光は、いまや私たちを照らしている。その光は、私たちに与えられている。救い主がこの世に与えられたことを憶え、祝うその礼拝の中で、教会はそのことを伝えてきたのでした。たしかに、今なお私たちの周りには、闇がその力をふるっている。しかし、光は既に与えられた。闇は光に勝つ事が出来ない。そのことを、毎年このクリスマスの時に、信仰者たちは互いに伝えあい、その喜びを分かち合ってきたのであった。
しかし、私たちの生きるこの世界を振り返ると、未だに闇の力は強大である。私たちは絶望と孤独の闇の中を未だに歩まねばなりません。実のところ、私たち自身の中から、世界を照らす光は出てこないことを思い知るのである。しかし、その私たちのために、命を照らす言葉、救い主イエス・キリストは与えられた。そして私たちを照らし、私たちのその歩みを支えて下さるのである。命を言葉は、決して消えることなく、私たちを照らしている。神の命の言葉、それは闇の中に閉ざされた私たちをも照らす、命の光なのである。

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