2012年1月17日火曜日

[説教要旨]2012/1/8「心に適う者」マルコ1:4−11

顕現後第1主日

初めの日課 創世記 1:1−5 【旧約・ 1頁】
第二の日課 使徒言行録 19:1−7 【新約・ 251頁】
福音の日課 マルコ 1:4−11 【新約・ 61頁】

本日の聖書箇所は、日本のルーテル教会では「主の洗礼日」として1/15の日課となっているが、改訂共通日課では1週早く、1/8に取り上げられている。主イエス・キリストの洗礼とは、論理的に考えると矛盾をはらんだ表現である。罪なくして生まれた神の子が、なぜ、罪の赦しの洗礼を受けなければならないのか。それは、古代から大きな疑問であった。しかし、結論から言うならば、私たちの生きているこの世界は、決して全てが、私たちにとって納得のいく、合理的で、整えられた事ばかりなのではない。私たちの生きているこの世界は、まさに矛盾に充ち満ちている。なぜこのようなことが起こるのか。なぜ思う通りにならないのか。そのような思いにぶつかりながら生きるしかないのが私たちの現実である。主イエスが、罪の赦しの洗礼を受けなければならなかったという、この矛盾を引き受けられたということは、いわば、そんなことをする必要などどこにもない神の子が、私たちの生きるこの矛盾に満ちた地平に降り立ったということを私たちに物語る。救い主が、この地上に与えられ、その光は全世界に届いていることを憶える降誕から顕現への季節の中で、主の洗礼の出来事を通して、救い主はまさに私たちと同じ地平に立たれたことを私たちは思い起こす。
主イエスの洗礼の場面は、4つの福音書がそれぞれに収録しているが、他の福音書では「天が開く」という表現が使われているのに対して、「天が裂ける」という表現は、このマルコによる福音書に独特なものである。しかし終わりまで福音書を読むとき、主イエスが十字架の上で、息を引き取られた時に、人々の目から聖なる空間を隠していた神殿の垂れ幕が「裂けた」ということと、実は対になっていることに気付かされる。罪なき神の子が、この矛盾に満ちた地上の世界に立たれたということ。それはまさに天を裂くほどの痛みを伴う、無理矢理な出来事なのである。しかし、それによって、隠されていた聖なるものが明らかになり、この矛盾に満ちた地上でうめきをあげる全ての人々に、救いの光は届けられることをこの「裂ける」という表現は私たちに示している。
天が「裂けた」後に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が世界に響く。この「わたしの心に適う者」とは、直訳をするならば、「私はあなたを喜ぶ」という意味の表現である。天を裂き、神殿の垂れ幕を裂く。それは、いわば今ある秩序、整えられた状態を破壊し、まさに矛盾のただ中に突き進んでゆくことである。しかしそのような、このイエスという存在を、神は「喜ばれる」。それは、主イエスが、向かわれた先、私たちが生きるこの矛盾に満ちた世界そのものを、神はその限りのない愛を持って愛し、喜ぶのだということに他ならない。神が喜び、その心に適うもの、それは美しく矛盾無く整えられた神殿なのではない。むしろ悩みと葛藤と矛盾の中で、神を、そして救い主を求める、そのような私たちの生そのものなのである。その私たちのために、神の子イエス・キリストは、私たちの生きる、この地平に立たれたのである。私たちが、この矛盾に満ちた世界の中で、主イエスを救い主として信じ、そこに希望をみる時、「私の愛する子、私の心に適う者」という神の声は、私たちにもまた届けられる。主イエスによって、限りのない神の愛は私たちに注がれている。

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