2011年8月4日木曜日

[説教要旨]2011/07/31「希望の種をまく」マタイ13:1-9

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 イザヤ 55:10-11 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 8:18-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイ 13:1-9 【新約・24頁】

 マタイ福音書のなかでもこの13章には「たとえ」という言葉が集中して用いられている。それは、この13章の主題が天の国について、主イエスがこの地上に宣べ伝えたことであることと深い関係がある。天の国について語るためには、この「たとえ」という方法が、最もふさわしかったのである。そしてまた、12章では主イエスに従う者と敵対する者とのコントラストが鋭く描き出されていたが、この天の国についてのたとえが語られるに至って、そのコントラストはさらに強調されることとなる。
 本日の福音書では、「種まきのたとえ」が語られている。このたとえにおいて注目すべき場、失われる種の割合の多さである。実に蒔かれた種の4分の3は失われてしまうことになる。小麦の収穫倍率は現在でこそ15~20倍であるが、中世まではせいぜい3倍程度に過ぎなかった。したがって、実際にこのたとえの通りであれば4分の1減収する結果にしかならない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけ、種まきなど無意味である、そのように通常であれば考えることとなる。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
 もし私たちが、自分の目に見える領域、世の常識で予想することのできる領域の中で考えるらならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかに期待される収穫の取り分を少しでも多くしようと奪い合うしかない。あるいは、その働きの空しさに倦み疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。
 しかし、主イエスは、種を蒔き続けられた。この地上での主イエスの歩みは、たしかに十字架の死という結末を迎えた。それはまさに、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語っている。けれども、主イエスの歩みは、十字架の死では終わらなかった。たとえ失われるものが多かったとしても、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示しているのである。
 私たちが、自分の意志や知識そして思いのみによって未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスが語られる天の国は私たちにとって未知の領域、神の働かれる領域である。見える・予想できる領域ではなく、見えない・未知の領域にこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがある。

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