2011年8月18日木曜日

[説教要旨]2011/08/14「隠された宝」マタイ13:44-52

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 3:4−15 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマ 8:31−39 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:44−52 【新約・26頁】

 本日の聖書のたとえが語ることは、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということである。それは私たちの間に既に与えられている。それを私たちはただ「発見」することが出来るだけである。そしてさらに、自分の働きの成果ではないはずの、この天の国と出会う時、私たちの生の歩みは根底から、その立っている基準・基盤を変えられてしまうことを、これらの譬えは私たちに気付かせる。
 本日の最初のたとえの中に登場する農夫は、自分自身の畑を耕しているわけではなく、おそらくその日雇いの労働者として働かせられている。しかし、その労働の中で、偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、彼の人生をその根底から変えてしまうこととなる。彼は持てる全てを売り払ってしまう。つまり、彼の生きてきた全てに、この一瞬の出会いは優っている。二番目の商人は、市場で偶然に高価な真珠を発見する。この真珠との出会いはこの商人の価値観・優先順位を根底から変えてしまう。この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。彼の生きてきた全てに対して、この真珠は優るものであった。いわば、この二人はの人生は、宝と真珠に敗北していると言える。彼らがその人生の中で築き上げてきたこと、成し遂げてきたこと、それら全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことが出来ず、彼らの人生は敗北してしまった。けれども、彼らは大いなる喜びに満たされたと聖書は語る。
 この二つのたとえの中で能動的・主体的な働きを担っているのは、人ではなく、宝であり真珠の方である。私が、宝・真珠を作るのでもなければ、私が自らを宝・真珠にふさわしく造り上げるのでもない。それらとの出会いによって、私たちは打ち負かされ、変えられて行くのである。まさにその意味で、キリストの弟子であるということは、神の国との出会いによって日々打ち負かされ、変えられてゆくことに他ならない。自分の知る正しさを貫き通し、純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると私たちは時として誤解する。しかし、主イエスが語ることはむしろ、私たち自身が、天の国との出会いによって、私が打ち負かされ、変えられてゆくことを喜ぶことなのである。
 キリストは、十字架という、この地上におけるもっとも悲惨な敗北へと向かわれた。しかし、その敗北こそが、新しい時、神の愛と平和がこの世界に満ちる真の神の国・天の国が実現する時の始まりであった。私たちの目には敗北としか見えないこと、自分自身が打ち負かされることの向こう側にこそ、真の平和と希望があることを主イエスの十字架は私たちに伝えている。平和を生み出す働き、それは私たちが自らの正しさ・理想・純粋さを貫き通すことではない。むしろ、そうした私たちの有り様が、神の国との出会いを通して根底から変えられることによって、初めてこの世界に、神の愛を伝えることが、平和をもたらすことができるのである。

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