2011年8月9日火曜日

[説教要旨]2011/8/7「平和の種」マタイ13:24-35

聖霊降臨後第8主日・平和の主日

初めの日課 イザヤ 44:6-8 【旧約・1133頁】
第二の日課 ローマ 8:26-30 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:24-35 【新約・25頁】

 先週の日課に引き続き、天の国のたとえを主イエスは語られる。「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」がここでは語られている。そのいずれも、わかりやすいとは言えないものばかりである。主イエスはこれらのたとえを群衆に対して語られたことが34節で確認されるが、同時にそれらは「隠されている」ことであると35節で示唆されている。
 私達人間は、何が神のみこころであり、何が神の計画であるのかということを、知ることが出来ない。それにもかかわらず、時として、「どこに神はいるのか」「神がおられるならば、なぜこのような悪が存在するのか」と自分に問い、「このような悪が存在するのなら、神はおられない」と結論し、ただ絶望へと向かう。まさにその意味で、主イエスにおいて実現している天の国は、私達の目からは隠されているのである。
 しかし、主イエスは、そのような世界のただ中にこそ、平和の福音を告げられた。そして、その十字架によって、敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにされた。主イエスの平和の福音は、私達が守るべきと思っていた私達の常識と価値観を守るのではなく、むしろ揺さぶり、破壊する。
 毒麦のたとえが語るものは、私達人間の目に見えるところのものによって断罪することは出来ないということである。そしてからし種・パン種のたとえは、その最初の姿の中には、最終的な姿を見出すことは出来ないということが語られている。
 神の働きはいつでも私達が望むような姿で私達の前に現れる訳ではない。しかし、それは私達の間で確実に存在していることを主イエスは語られる。
 天の国に望みをおき、地上の平和を望むということ、それは決して単に今私が思い描く安全・安心を願うことなのではない。それはむしろ、この地上において、見えない神の働きを信頼することなのである。それは、人の思い描く純粋さや豊かさを一部断念することでもある。しかし、それこそがまさに、自分の十字架を背負って、主イエスの後に私達が従うことであり、それこそが平和の種をまき続ける働きなのである。
 その平和の種はからし種のように小さく空しいものであるように私達の目には映る。しかし、主イエスにおいて始まっている神の働きは、私達の思いと理解を超えた結末を準備へと私達を導く。

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