2011年8月23日火曜日

[説教要旨]2011/08/21「全ての人を満たす」マタイ14:13−21

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 イザヤ 55:1−5 【旧約・1152頁】
第二の日課 ローマ 9:1−5 【新約・286頁】
福音の日課 マタイ 14:13−21 【新約・28頁】

 主イエスの道を備える者である洗礼者ヨハネが権力者によって処刑されたことは、主イエス自身の辿る運命を暗示している。これ以降、主イエスの十字架がいよいよ迫ってくることとなる。十字架へと近づく主イエスは、群衆の中へと入ってゆき、救い主メシアとしての働きをなす。その一方でユダヤ社会の宗教的指導者・権力者達との対立を深めてゆく。
 十字架への道を歩まれる主イエスを群衆たちは追いかける。その大勢の群衆を見て、主イエスは「深く憐れまれた」。それは単に、個人的な感情として同情するとか、かわいそうに思うということなのではない。人々の困窮と苦悩を共に担い、そしてそこからの解放をもたらされる救い主として、人々へと関わるあり方を表している。「その中の病人をいやされた」という記述は、まさにそうした救い主と人との関わりを物語っている。それは等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観によるものではない。それはただ、困難の内にある命と共にあり、その苦しみと悲しみを共に担うという、神の愛と慈しみに基づいている。
 夕刻における大群衆(男だけで五千人)へ食事を与える奇跡がそれに続く。現代人としては、「どのようにして」この奇跡を合理的に説明できるかにとらわれてしまいがちであるが、それは空しい試みに過ぎない。なぜならばここで重要であることは、救い主である主イエスにおいて神の愛と慈しみは実現するということ、そしてその主イエスが共におられるところで、空腹の大群衆が全て満たされたということに尽きるからである。そこで実現したことはまさに、等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観・合理性を無視した天の国の論理であった。そしてまたそれは、聖書において繰り返し語られてきた神の慈しみの業であった。聖書が語る歴史の中、弱り果てた民を主なる神が見捨てることはなかったのである。
 神の愛と慈しみの深さが示される一方で、主イエスに命じられた弟子たち自身が用意出来たものは、わずかにパン5つと魚2匹でしかなかったことが語られる。それは空腹を抱えた群衆の数から見れば、およそ無に等しいものに過ぎなかった。この対比によって、合理的に見ればここでの弟子たちの働きが、現実の要求に対していかに僅かで不十分なものであるかが際立たせられることとなる。しかし、その人の目から見れば不十分に過ぎない働きを、主イエスは拒否されることも叱責されることもなく受け取られる。そして主イエスによってそれが用いられる時、それは全ての人を満たして余りあるほどとなったのであった。
 十字架への道を歩まれる主イエスが分け与えられるもの、それはご自身の命に他ならない。主イエスの命が分かち合われるところでは、私たちは自らの力の弱さ・不十分さを嘆く必要はない。主イエスは私たちのその不十分な業を用いて、私たちの思いと力とを超えた未来へと私たちを導くのである。

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