2011年4月6日水曜日

[説教要旨]2011/04/03「ただ一つ知っていること」ヨハネ9:13−25

四旬節第4主日

初めの日課 イザヤ 42:14−21 【旧約・1129頁】
第二の日課 エフェソ 5:8−14 【新約・357頁】
福音の日課 ヨハネ 9:13−25 【新約 184頁】

 本日の福音書では、その直前で主イエスと出会った目の不自由な男について取り上げら、さらに、この男の癒しの奇跡のその後に起こった出来事が詳しく描かれることとなる。他の福音書の物語と異なり、この場面では主イエスは対話の中には登場せず、主イエスが不在のまま、人々の間で論争が起こる様子が描かれている。その様子は、私達自身の信仰生活の中で、私達自身が問われている姿にも通じている。人々は、主イエスに出会った男に詰めより、彼に起こった出来事を説明させようとする。しかし、彼は、人々が期待するようにはそれを応えることが出来ない。そもそも、彼が主イエスと出会った時、彼の目はまだ開いてはいなかった。したがって、人々は「その人はどこにいるのか」と問われたとしても、彼にはただ「知りません」としか答えられなかったのは当然のことであった。あるいは、そのイエスという人物がいったい何者であるかということについて、つまり百科事典のような整然と並べられた知識として知ることは彼にはできなかった。そして、そうした知識が備わっていたから主イエスによって癒されたのでもなかった。むしろただ、主イエスの方がこの男のもとを訪れたのであった。しかし、彼には「ただ一つ知っていること」があった。彼は「今は見える」という彼自身の体験であった。たしかに、その原因や方法は彼にはわからない。しかし、彼は今や、主イエスとの出会いが、彼の目を開いたことを知っているのである。そして再び主イエスに出会ったとき、彼は「主よ、信じます」と語るのである。この男の目が開かれたこと、その意味はまさにこの言葉が、この男の口から語られるためであった。
 私たちが、自分にとっての主イエスとの出会いを問われたとしても、私たちはその問いに対して、論理的にそして誰にでも当て嵌まるように説明することはおそらく不可能であろう。なぜならばそれは主イエスが私たちの元を訪ねられ、そして私たちと出会われたからに他ならない。そして、その時その場においては、私たちはその出来事の意味を理解することは出来ない。ただ自分の歩みを振り返ってみるときに、私たちは主イエスとの出会いがそこにあったことを知る。そして私たちはその時、私たち自身の心の目が開かれたことを知るのである。
 復活という奇跡を私たちが論理的に説明することは不可能である。しかし、主イエスとの出会いを通して、心の目を開かれた私たちはその意味を知る。それはこの地上において様々に傷つき破れた私たちの癒しと救いの出来事なのである。

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