2011年4月14日木曜日

[説教要旨]2011/04/10「わたしは復活であり命である」ヨハネ11:17−53

四旬節第5主日

初めの日課 エゼキエル 33:10−16 【旧約・1350頁】
第二の日課 ローマ 5:1−5 【新約・279頁】
福音の日課 ヨハネ 11:17−53 【新約 189頁】

 主イエスが訪れたとき、ラザロの姉妹は涙にくれている。それは人間にとって避けることの出来ない運命を前にして、私たちがいかに無力であるかということを思い起こさせる。私たちに出来ることはただ涙を流すことだけなのである。ラザロの死について聖書が語る事柄は、私たちにとって決して特別なことではない。それは私たち人間にとって常に現実であり続ける事柄である。
 しかし、その現実は主イエスの到来によって劇的に変化する。嘆く姉妹を前にして、主イエスは死の力に対する強い怒りを覚えられる。それは単に肉体的な死に対する怒りだけではない。人と人とを引き裂き、希望を奪い、絶望の中に陥れる力、そうしたものの全てとしての「死の力」に対して、主イエスは憤りを覚えられるのである。
 私たちから望みを奪う死の力、それはただ肉体の死においてだけでなく、私たちの生きている様々な場面を支配している。死の力は私たちに、分かち合うこと、赦すこと、他者の痛みを共に担うことを、無力で愚かなものであるかのように思わせる。そうした死の力に、私たちの日々は晒されている。けれども、主イエスはその死の力に憤り、あらゆる死のリアリティを打ち破り、ラザロを墓の中から呼び出す。それは主イエスがこの地上に与えられたことの意味を何よりも明らかにするものであった。
 死の力の支配から呼び出されたのはただラザロだけではなかった。主イエスはマルタに語る。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」この問いにマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と応える。主イエスの呼びかけに応えたマルタも、あるいはその妹マリヤもまた、ラザロと同様に命の中へと呼び出されたのである。実にここで聖書は、私たち人間を支配し、絶望と悲嘆と孤独へと閉じ込める死の力に抗う道を、私たちに語っているのである。主イエスの十字架からの復活、それは私たちに、死に勝る力があること、それは主イエスによってこの地上に与えられていることを告げる。まさにその意味で、絶望と悲嘆に満ちた死の力の支配の元から、十字架は私たちを呼び出している。十字架を見上げる時、私たちはそこにこそ、今私たちに押し寄せる、悲嘆と絶望の力に抗う道があることを知るのである。

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