2010年10月26日火曜日

[説教要旨]2010/10/24「胸を打ちながら」ルカ18:9-17

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 申命記 10:12-22 【旧約・297頁】
第二の日課 2テモテ 4:6-18 【新約・394頁】
福音の日課 ルカ 18:9-17  【新約・144頁】

 度々福音書では、「ファリサイ派」というグループは、主イエスに敵対する存在として、悪い・謝った存在として描かれている。しかし本来はその厳格な信仰的態度ゆえに、当時の社会の中では尊敬される立場にあった。
 本日の福音書のたとえ話では、ファリサイ派の男は祈りの内にこれらのことを主の前に証しし感謝する。しかしながらその感謝は自らの努力と正しさを誇る態度となっていた。しかも、ルカ福音書の主イエスのガリラヤからエルサレムへの旅の途中では、ファリサイ派の人々について、ここで彼が自分について主張していることとは全く逆の批判の言葉が挙げられてきている(11:39、16:14、16:18)。尊敬されるべき人々に対して、これほど厳しい非難が向けられるのを聞いた人々は、大いに驚いたにちがいない。そして、その驚きは一つの疑問を人々に呼び起こす。「正しさ」とは一体何なのか。枠からはみ出さないこと、厳格に伝統に従い、それを守ることが出来ること、それこそが「正しい」ことであると人は考える。しかし、それは本当にそうなのか。
 本日のたとえ話では、もう一人徴税人が登場する。ファリサイ派からは「この徴税人のような者でもないことを感謝します」とすら言われている。それはつまり、世の中ではファリサイ派に対する対極として、世間で蔑まれ、つまはじきにされるような、存在として考えられていたことを物語っている。それゆえにこの徴税人は祈りの場に近づくことすらできなかった。そしてさらに、彼は「胸を打ちながら」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と独白する。「胸を打つ」という行為は、中東では女性に特有の悲しみのしぐさであった。男性がそうした行為することは尋常ではないことであった。しかし世間での慣習からはみ出してでも、「わたしを憐れんで下さい」と求めずにはいられなかったこの徴税人こそが、主なる神によって「正しい」ものとされたと主イエスは語られる。
 主イエスの十字架は、私達に「このような者でもないことを感謝します」と神に感謝させるためにあるのではなかった。むしろ、主イエスが十字架にかかって命を落とされた時、人々は胸を打ちながら帰って行ったのであった(23:48)。主イエスの十字架は、私達を神の起こされる逆転の渦の中に私達を巻き込んでゆく。そしてまさに福音は、逆転に満ちているのである。私達の目には失敗・挫折・遠回り・逆行・衰退・喪失としか目に映らないことの中に、新しい命、新しい世界、豊かな実り、尽きることのない喜びと希望を、神は与えられる。
 このたとえに続いて、主イエスは子どもを祝福される。弱く、何の生産性もない子どもが選ばれ祝福される。それが神の国の出来事であることを主イエスは語られる。主イエスの十字架によって、この神の国は私達の間に与えられた。私達はもはや自分の正しさを誇るために他者を蔑むことは必要ない。胸を打ちながら神に憐れみを求めることが私達には許されているのである。

0 件のコメント: