2010年10月12日火曜日

[説教要旨]2010/10/10「立ち上がって行きなさい」ルカ17:11-19

聖霊降臨後第20主日

初めの日課 列王記下 5:1-14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 2テモテ 2:8-13 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

 エルサレムに向かうにあたって、主イエスが「サマリアとガリラヤの間を通られた」と物語は語る。サマリヤとユダヤは元来同じ民族であった。しかし、歴史の中で、二つの地域は、対立を繰り返し、互いへの憎悪を募らせてきた。ガリラヤもまた都の人々からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、社会の周縁に位置づけられていた。その「間を通って」十字架の地であるエルサレムへと向かわれる主イエスが通られるということ、そこには主イエスとその十字架が、まさに人間同士の対立と憎悪、嘲笑と妬み、そうした、人間の「負」の側面、「闇」のただ中を貫いて働かれていることを、読者に思い起こさせるのである。
 その途上で、主イエス達は、10人の重い皮膚病の人々に出会う。彼らは、主イエスを発見し、遠くから「わたしたちを憐れんでください」と願う。5章での同じ病を持つ者への癒しとは異なって、主イエスは直ちにその場で彼らに癒しの業を行わない。ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と語られる。祭司に体を見せるということ、それは、社会的な交わりが回復するための一つの関門であった。病の癒しという具体的な出来事よりも、交わりの回復の方が、人間の命にとっては、より本質的で深刻な問題であり、解決することが困難な問題であることを示している。しかし「サマリアとガリラヤの間を通られた」主イエスは、その言葉をもってこの排除された人々を社会の中へと復帰させられる。主イエスの言葉はまさにそのような力を持って、人と人を隔てる様々な闇のただ中に働かれるのである。
 主イエスの力に出会った10人うち1人はサマリア人であったことが報告される。この人は主イエスの元に「戻って来た」のであった。社会から排除されていた者たちの中にも、さらに憎悪と対立があったのか、あるいはそれは問題ではなかったのか、それは定かではない。しかし、ここで明確であるのは、このサマリア人は、自分が再び「生きる」者となったのは、この主イエスの言葉によるものであったということを、はっきりと分かっていたということである。おそらく10人の中でもっとも不安定な立場にいたであろうこの人物こそが、自分自身の救い主がどなたであるかをもっともはっきりと知ることができたのであり、「救い主」として主イエスに出会うことができたのであった。
 主イエスは最後に語られる。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスの言われる「あなたの信仰」、それはこのサマリア人が、もっとも弱く不安定な立場の中で生きてきたということ、そしてそれゆえに、主イエスに真の意味で出会うことが出来たという、その体験であり、その人の人生の歩みそのものに他ならない。信仰とは弱さの中で、主イエスが私たちと出会うために待っておられるということ、その出来事なのである。

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