2010年10月21日木曜日

[説教要旨]2010/10/17「祈りの行方」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 創世記 32:23-31 【旧約・ 56頁】
第二の日課 2テモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは「神の国はいつ来るのか」という論敵からの問いに対して、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられている。たとえ人の目には見えなかったとしても、この神の国は現に私達とともにあるのである。人の目には何の変化も無いように見える私達の日常の中にも、実は神の国は「ある」ことを主イエスは教えられているのである。そして、目には見えないこの「神の国」とともに生きるとはどういうことなのか。そのことを主イエスは続いていくつかの譬えを用いて語られる。
 その手始めに「気を落とさずに祈らなければならない」ことを主イエスは教えられる。人は自分の願いが実現しない時、自分の祈りは聞き届けられていないと思う。そしてそれは自らの信仰の弱さのせいではないかと思う。それは私達の日常生活の感覚から言うならば、勤勉さ、熱心さは、時間の短縮という形で目に見えるかたちとなるからである。しかし信仰の本質は人の意志の力や能力ではない。その意味で、祈りが聞き届けられたことが実感されるまでの時間の長短は、その人自身の信仰の強さとの間に相関関係はないのである。むしろ、重要なことは、どれほど絶望的な状況であったとしても、気を落とさずに祈りつづけることなのである。
 「やもめ」という存在は、経済的・社会的な活動が男性に集中していた古代の聖書の世界において、現代よりもなお弱い立場におかれていた。「不正な裁判官」という存在によって、やもめを取り巻く状況がまさに絶望的であることがここで確実なものとされる。しかし、そうした全ての「目に見える」現実に反して、やもめの訴えは聞き届けられる。それは私たちの常識では起こりえないことであり、矛盾した結論でしかない。しかし、私たちに間に現にある「神の国」には、私たちの論理と矛盾する結論、絶望的な状況の中から弱い者が勝利する、そのような「非常識」な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵にも弟子たちにも、そして現代の読者である私たちにも教えておられるのである。
 そして、その言葉が真実であること、つまり、絶望の中に希望が与えられる、死の中に命が生まれる、ということが実現するということは、主イエスがこの旅の目的地であるエルサレムで、ご自身の十字架と復活によって、論敵に、弟子たちに、そして私たちに示されたのであった。十字架を見上げるとき、私たちは、私たちの祈りの行方がどこにあるかを知る。私たちの祈りは、十字架を通して、現に今神に聞き届けられているのである。

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