2010年2月2日火曜日

[説教要旨]2010/1/31「あなたがたは満たされる」

顕現節第5主日
初めの日課​ エレミヤ17:5-8​【旧約・1208頁】
第二の日課 ​1コリント12:27-13:13​【新約・316頁】
福音の日課​ ルカ6:17-26​【新約・112頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれる箇所は、ルカ福音書のこの箇所では「平野の説教」とも呼ばれている。山で祈りの内に12弟子を選び出した主イエスは、彼らと共に山を下りて、民衆の生活のただ中へと入っていく。そして、12弟子に留まらず、多くの人々を前にして、幸いと不幸について語られる。「目を上げ」られたその視線は、身近なある限られた弟子たちだけに向けられたというよりも、この世全体へと向けられているかのようである。
そして主イエスは「神の国はあなたがたのものである」と語られる。その「あなたがた」とは、貧しく、今飢えており、今泣いている人々である。そうした人々は「満たされるであろう」し、「笑うようになる」と語られる。そこでは、「今」という時に、現に飢え悲しんでいるという、動かしがたい抜き差しならない現実と、未来における世の終わり、すなわち終末の時に約束された満腹と喜びとが、コントラストを描きだす。では、人が現に飢え悲しんでいる現実は、何ら変わることがないのだろうか。未来における、天における喜びは、人間が生きる今と言う時には何ら関わりを持ちえないものなのだろうか。
しかし、主イエスは幸い「になるだろう」と語られるのではなく、現に「幸いである」と語られる。そして神の国が「与えられるだろう」ではなく、現に「あなたがたのものである」と語られている。主イエスが語られる言葉によって、未来における、天における喜びは、現に人が生きている、その「今」という時の中に実現する。大勢の弟子たちとおびただしい民衆の間でなされた主イエスの癒しの業がその出来事を伝えている。
私たちが生きている「今」は、たしかにこの地上の世界にある。しかし、主イエスの言葉に出会う時、私たち生きている地上の「今」は、来るべき神の国へと一気に結びつけられる。今と言う時の中での、私たちの飢えや悲しみが深ければ深いほど、つまり、その今という時の抜き差しならない現実が厳しければ厳しいほど、主イエスの言葉は力強く私たちに迫って来るのである。何よりも、主イエスの十字架の死と、その死からの復活は、人の生きる今という現実のただ中に、神の国が打ち立てられた出来事であった。
しかし、今という時が満たされていないからこそ、そこに欠けと不足があるからこそ、私たちのその今は、神の国と結びつくのである。今、思いのままに、すべてが整えられるならば、それは現に「不幸である」と主イエスは語られる。満たされ、思いのままに整えられた所、そこで人は主イエスの言葉に出会うことも、神の国と結びつくこともないのである。主イエスの言葉は、今を生きる私たちへと投げかけられている。




0 件のコメント: