2010年2月16日火曜日

[説教要旨]2010/2/7「心を合わせて」

2010年度三鷹教会総会

説教テキスト ローマの信徒への手紙15:5-6(2010年度三鷹教会主題聖句)

 パウロは、(多くの知人がいたにせよ)ローマの教会を直接知らないままにこの手紙を書き送っている。しかし、その手紙の終わりに位置する14-15章にかけて、他の手紙と同様に教会の中の諸問題に関する勧告として、多様な信仰者が共に生きることについて記している。それは、この事柄が決してある特別な教会において問題になるのではなく、あらゆる教会に普遍的な意味を持つことを示唆している。
 そこでは習慣的な事柄から自由な信仰をもった「強い人」と、従来の生活信条から離れられない「弱い人」についてパウロは語る。しかしパウロは、そのどちらが正しいということを決定しない。むしろ双方が自らの正しさを主張し、互いを裁き合うことそのものを批判する。そして「強い人」も「弱い人」も、そのどちらもが「主のため」にそうしているのであると主張する。人間の行う業の中に絶対的な正義は存在しえず、義と平和と喜びである神の国は、ただ聖霊によって与えられる。したがって人が出来ることは、その時々の判断の中で、他者にどのように配慮することが「望ましい」かがむしろ人間に与えられた課題なのである。自分自身の確信(信仰)と他者への配慮との間に、キリスト者の信仰生活はおかれている。
 この信仰生活の実践において最も重要になること、それは「隣人を喜ばせ」、「互いの向上に努める」ことであるとパウロは語る。しかし「弱い者」と「強い者」がそのような関係に立とうとする時、まず「強い者」が「弱い者」に対して、自らの満足を断念し、譲らなければ、そのような関係が実現することはありえない。それはキリストがご自身の十字架において示された、自らを徹底的に低くすることによって、この地上に義と平和と喜びを与えられた態度に他ならなかった。
 (旧約)聖書に描かれた事柄は、神の義と平和と喜びが与えられることを信じて歩んだ民の忍耐と慰めの歴史であった。そしてそれはキリストの十字架において私たちの間に実現した。私たちがそのキリストに倣うということ、それは互いに「強くないものの弱さを担う」ことにこそ希望を見出すことに他ならない。この希望こそが、弱い者も強い者もいる多様な信仰者の群れの心を合わせる力の源であり、キリスト者が世に伝えなければならない、義と平和と喜びの出来事なのである。

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