2010年2月16日火曜日

[説教要旨]2010/2/14「栄光に輝くイエス」

変容主日

初めの日課 申命記 34:1-12【旧約・338頁】
第二の日課 2コリント 4:1-6【新約・329頁】
福音の日課 ルカ 9:28-36 【新約・123頁】

マタイ・マルコ・ルカの福音書では、主イエスは、3度ご自身の十字架と復活について予告されたことが記されている。しかし弟子たちは、その時はまだ、主イエスの語られるご自身の受難と復活と、主イエスの弟子たることの意味を理解することはまだ出来なかった。ルカでは、マタイ・マルコのようにペトロに対して直接叱責する様子は記されていないが、弟子たちに対して「わたしに従いなさい」と語る主イエスの言葉は同じように伝えられ、それに続いて主イエスの変容の出来事が描かれている。12弟子たちは、主イエスと共に旅をし、そしてその神の国の宣教と、癒しの業を目の当たりにし、さらには主イエスの代理として派遣されていながら、あるいは「メシアです」と答えてさえいながら、主イエスとは何者であるのか、どこへ向かおうとしているのか、ということがわからなかった。主イエスが担われる使命は、弟子たち期待と思惑から大きく逸脱していたのである。
12弟子の中でも特に中心となっていた3人と共に山で祈っておられた主イエスは光を放ち、モーセとエリヤという歴史的預言者の代表らと語りあったと聖書は語る。それはまさにこの世のものとは思われない光景であり、弟子たちのみならず、私たちの理解をはるかに超えた出来事である。それが一体どのように起こったかということを、私たちが納得のいく仕方で説明することは無意味である。むしろそれは私たちの理解を超えた出来事、すなわち神の国がこの地上にその姿を現した出来事であったということ、そしてその時、主イエスの最期、すなわち十字架の出来事について語られていたということに注目しなければならない。主イエスの「栄光」それは、人間が考えるようなものではなく、神の国が現れるということであった。そしてその出来事は、モーセからエリヤへ、そしてさらには読者にとっての「今」へと至る、神の救いの歴史が主イエスの最期=十字架に結びつけられているということであった。
そのような人間の理解を超えた光景を前にしたペトロは、いわば私たち人間を代表であるかのように、「何を言っているのかわからない」ことを語る。それは神の力を前にした、人間の限界を如実にしめしている。人は神の救いの業をその思惑の中にとどめることは不可能なのである。そこに神の声が響く。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」声と共に残されたのは、主イエスだけであった。
私たちに残されている事柄、それは主イエスの言葉である。この主イエスの言葉に聞き従う時、私たちは私達自身の期待と思惑を超えた、神の救いの業に出会うことが出来るのである。

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