2010年2月24日水曜日

[説教要旨]2010/2/21「荒れ野を生きる」

四旬節第1主日

初めの日課 申命記 26:5-11【旧約・320頁】
第二の日課 ローマ 10:8b-13【新約・288頁】
福音の日課 ルカ 4:1-13【新約・107頁】

 教会は再び、主イエスの受難を憶える四旬節(レント)の時を迎える。この40日余りの日々の始まりに、伝統的に荒れ野での主の40日間の誘惑の箇所が福音書として選ばれていることは意義深い。このみ言葉を通じて、主イエスの生涯における荒れ野での40日間は、私たちの教会生活の中での40日間へと結び付けられる。私たちが今直面する様々な困難と試練とを、かつて主イエスもまた、荒れ野において辿られたということを、私たちは思い起こさせられる。
 主イエスの荒れ野での日々は、聖霊が鳩のように下り、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が投げかけられた、その洗礼の直後に位置付けられている。神の子として「聖霊(=見えない神の力)」に満たされるならば、何の迷いも困難も無いはずなのではないか。普通そのように私たちは考える。しかし、神の力に満たされた主イエスは、まさにその「霊」によって荒れ野で困窮と試練の時を過ごすことを運命づけられる。だとするならば、救い主としてこの地上に与えられた主イエスを満たす力と一体何なのであろうか。
このことは、その試練の場面において一層明確に問われることとなる。悪魔が誘惑者として登場し、会話するのは、創世記3章のアダムとエヴァの失楽園の物語を彷彿とさせる。誘惑者は、出来ないことをやってみろというのではなく、あたかもそれは出来なければならないことのように語りかける。「神の子なら・・・したらどうだ」というその主張は、話の筋として決して誤っているとは言えず、むしろ人間にとって納得のいくものですらある。それらは、人を貶めるというよりも、むしろ高みへと導く問いかけであった。もし、主イエスが本当に神の力に満ちているのであれば、その力を用いて、一気に高みへと向かうことは、むしろ合理的であるように人間には思われるのである。しかし、それらの問いかけに対して、主イエスはことごとく聖書(旧約)の言葉を用いて応えられる。その姿は、むしろ弱々しく、意気地のないようにすら私たちの目には映る。
 直接には悪魔という存在として描かれているところの、神の子・主イエスが闘われた対象とは、自らの正しさを証明し、高みへと向かおうとする誘惑であった。神の子でありながら、同時に一人の人間として歩まれる主イエスは、そうした誘惑に対し、徹底してみ言葉を持って応え、自らの弱さに留まる。その姿はパウロが出会った言葉「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ12:9)を思い起こさせる。四旬節の40日を通して、私たちは自らの弱さの内に働く神の力に出会うのである。

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