2010年1月18日月曜日

[説教要旨]2010/01/17「主の恵みの実現」

顕現節第3主日

初めの日課​ エレミヤ 1:4-8​​【旧約・1172頁】
第二の日課 ​1コリント 12:1-11​​【新約・315頁】
福音の日課​ルカ 4:16-32​ 【新約・107頁】

本日の福音書で主イエスは、会堂で聖書の預言を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められる。それは、この地上において、苦しみと嘆きのあるところに、自由と解放と喜びをもたらすとされた神の約束の実現が、主イエスがおられるところにおいて、「今日」となる、ということであった。それは、2000年前の過去における「今日」なのではなく、今生きている私たちにとってもまた「今日」であるような、そのような時である。苦しみと嘆きがあるところ、自由と喜びが求められているところ、まさにそこが、「今日」主イエスがおられるところとなるのである。主の恵みは、主イエスが私たちと共におられる今日、実現するのである。
この主イエスを巡って、人々の間には様々な反応が起こる。ある者たちは、この恵み深い言葉を称賛する。しかし別の、主イエスがどこの家族の者かを知っていた者たちは、主イエスが共におられるにも関わらず、主イエスを受け入れることができない。彼らが日常的に知りえた経験と知識の延長線上に、主イエスは立っていなかったのである。イエスという人物の来歴を知っていたことが、逆に、彼らが「今日」救い主としての主イエスに出会うことを妨げるのである。
つまり逆に言うならば、主イエスが共におられることで、苦しみと嘆きに解放と喜びが実現する「今日」もまた、私たちの知識の延長線上には立っていない。私たちの理解や計画の内側には、主イエスと出会う「今日」は起きえないのである。むしろ、私たちの計画が破綻し行き詰まるところ、私たちの経験や力及ばなくなるところ、そここそが、主イエスが共におられる「今日」なのである。
主イエスを受け入れない人々に対して、主イエスは聖書の物語を引用して、救いは「異邦人」にしか与えられなかったと語る。いわば、救いが実現する「今日」、すなわち、主イエスと出会う「今日」は、本来、私たち人間の思いと期待の「外側」において起こる、と語られるのである。この主イエスの態度に怒りを憶えた者たちによって、主イエスは命の危険にさらされるが、主イエスに触れることはかなわなかった。それはまだ、十字架の出来事を待たなければならなかった。
主イエスの十字架と復活、それは私たちの日常生活における知識や経験の延長線上の外に立つ事柄である。そしてそうであるからこそ、それは私たちに救い、解放と喜びを実現する徴となるのである。この十字架を通して、私たちは、主イエスに「今日」出会うのである。



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