2010年1月16日土曜日

[説教要旨]2010/1/10「神の心に適う者」

主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7                    【旧約・1128頁】
第二の日課        使徒 10:34-38                【新約・233頁】
福音の日課        ルカ 3:15-22                    【新約・106頁】

 本日の福音書は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとへ来て、洗礼を受けられる場面が描かれる。洗礼者ヨハネはヨハネは、来るべき方、すなわちメシアは「脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語り、その裁きについて教え、その裁きに備えて、ヨルダン川で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていた。そのヨハネのもとで、主イエスは、他の人々と同じように洗礼を受けられる。
 罪なき神の子が、なぜ罪の赦しを得させる洗礼を受けなければならなかったのか。これは大きな矛盾である。その意味で、主イエスの振る舞いは全く論理的ではない。それは、私たちが考える、ありうべき「正しい答」ではないようにすら思える。しかし、その主イエスの洗礼にあたって、天が開け「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声と神の霊が下る。矛盾した、正答とは見えないようなその振る舞いこそが、神の心に適うものであったことを、聖書は語るのである。
 神のみ心に適うことは何か。それは、主イエスの時代も、そして今も変わらない、大変深い信仰的問題である。その問いに対して私たちは、私たちの考える論理的に整頓された、唯一の正答を求めようとする。これこそが、正しい信仰者の在り方である、という答を、私たちは求めてしまう。しかし、実際には、そこに唯一の正答などはありえないことを、聖書は、主イエスと宗教的権威との論争を通して語っている。私たち人間が、神のみ心に適うような「正しいあり方」を、その手にとどめておくことなどそもそも不可能だからである。
しかしもし、敢えて正答を問うとするならば、私たち人間が考える「正しいあり方」を捨て、矛盾と葛藤と不安とに悩む罪ある人とともに生きるために、罪なき神の子でありながら、罪の赦しの洗礼を受けられ、そして、矛盾と絶望の極みである十字架へと歩まれた、主イエスその人でしかないのである。まさに、主イエスその人を受け入れること、それこそが神のみ心に適うことなのである。
 「隅々まできれいにし」、「消えることのない火で焼き払われる」と洗礼者ヨハネによって預言された来るべきメシア、主イエスが、その十字架と復活によって、この地上に実現されたこと、それは私たち人間が考えうるような「正しさ」を打ち立てることではなかった。むしろ、そのような人間の考える「正しさ」をこそ打ち破り、そこに神の愛の力によ支配、神の国の正しさを打ち立てることであった。主イエスの洗礼の出来事とは、私たちの思いを超えた神のみ心が、私たちの矛盾と葛藤と不安のただ中に与えられた出来事なのである。

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