2013年2月8日金曜日

[説教要旨]2013/2/3「神の愛を分かち合う群れ」1テサロニケ3:11-13

顕現後第4主日・三鷹教会定期総会

初めの日課 エレミヤ 1:4-10 【旧約・ 1172頁】
第二の日課 1コリント 13:1-13 【新約・ 317頁】
福音の日課 ルカ 4:21-30 【新約・ 108頁】

 使徒言行録によればパウロは第2回宣教旅行の途中でテサロニケで教会を創設、その後さらなる宣教地を目指して旅立つが、その後テサロニケ教会を様々な苦難が襲った。この苦難の中にあるこのテサロニケ教会を再び訪れて慰め励ましたいとパウロは強く願うが、何らかの理由によってその計画は頓挫する。その理由は様々に推測されているが明らかではない。いずれにしても、パウロはこの事を「サタンによって妨げられている」とすら感じるほど、焦燥と不安を覚えることとなる。現代人である私たちにとって、擬人化されたキャラクターとしての「サタン」はファンタジーのようである。しかし、励ましと希望を語る事、互いに喜びを分かち合い神に感謝すること、祈りを一つに合わせることを妨げる力が、この世に満ちているということ、そして私たちは日々そのような力に脅かされているということは、極めて現実的な体験でもある。
焦燥と不安の中、パウロは若い同労者であるテモテを派遣する。やがてテサロニケの教会から戻ったテモテは、パウロに「うれしい知らせを伝え」る(3:6)。「うれしい知らせを伝える」とは「福音を伝える」と同じ言葉である。テサロニケに福音を伝え、彼らを励まさなければならないと考え、焦燥と不安の中にあったパウロは、今や逆にテサロニケの信徒達によって福音を知らされ、励まされ、希望と生きる力を与えられる。そこには人の思いと予想を超えて働く神の力があることを確信し、パウロは祈りを捧げる。11節では、たとえ今、進むべき道が閉ざされているように見えたとしても、私たちの思いを越えて、主なる神は、そして主なるイエスが、その道を必ず備えて下さることを願う。その祈りは、福音の宣教の使命は、パウロ個人の思いや能力によって成し遂げられるのではなく、神と主イエスとによって成し遂げられるのだということを、改めて私たちに訴える。さらに続いて「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように」と祈る。そこでは「お互いの愛」つまり信仰の兄弟姉妹に対してだけでなく、「全ての人への愛」とによって、教会が満たされるようにと願っている。あらゆる困難、妨げを越えて、人と人とを出会わせ、希望を分かち合うことができるのは、神の愛によって人が満たされるからに他ならない。そしてそれは、ただ教会の中だけに留まることはない。満ちあふれる神の愛は、全ての人を満たしていくのである。最後に再臨の主に備えて生きることを願って祈りを締めくくる。主イエスの再臨の時、それは終わりの時であり、またあらゆる労苦と困難が報いられる時でもある。私たちを満たす神の愛は、主イエスの再臨の時、世の終わりの時に至るまで、私たちを結び合わせ、励ましと希望を分かち合わせる力であることを、パウロは力強く訴える。
今、この日本社会は不安と混乱の中にある。その中で生きる私たちもまた決してその不安と混乱から無縁ではない。けれども私たちが、神の愛によって満たされる時、私たちは、その不安と混乱を越えて希望と慰めの「うれしい知らせ」を伝え合うことが出来る。この2013年度、私たちが神の愛を分かち合う群れとして歩んでゆけることを祈り求めてゆきたい。

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