2013年2月22日金曜日

[説教要旨]2013/02/17「荒野の中で」ルカ4:1−13

四旬節第1主日

初めの日課 申命記 26:1−11 【旧約・ 320頁】
第二の日課 ローマ 10:8b−13 【新約・ 288頁】
福音の日課 ルカ 4:1−13 【新約・ 107頁】

先週の水曜日は、四旬節の始まりの日である「灰の水曜日」、そして本日は、四旬節最初の日曜日である。イースターまでの40日余りの日々の最初の主日にあたって、伝統的に荒れ野での主の40日間の誘惑の箇所が福音書として選ばれている。この箇所は、イースターまでに私たちが過ごす40日間が、主イエスの荒野での40日間を記念するものなのだ、ということを思い出させる。この四旬節の季節を通して、主イエスの生涯における荒れ野での40日間は、私たちの教会生活の中での40日間へと結び付けられる。つまり、私たちが今直面する様々な困難と試練とを、かつて主イエスもまた、荒れ野において辿られたということを、私たちは知ることとなる。
主イエスの荒れ野での日々は、聖霊の導きによって始まる。主イエスを満たす霊は、困窮と試練とに向かわせる力でもある。また、荒れ野と40という数字は、旧約聖書で語られる、イスラエルの民の40年に渡る砂漠での彷徨を思い出させる。40という数字は、その期間が人の予想を超える、大変長い年月であることを象徴する。つまり、それほどの長い期間に渡信仰への試練の時を意味している。現代の日本社会に生きる私たちにとって、信仰の試練の時はイースターの前の40日だけではない。私たちはこの世における日々の生活において、常に試練の中で生きている。
本日の日課では悪魔が誘惑者として描かれる。主イエスの試練、それは困窮と弱さだけではなく、いわばそれらを逃れ、力と高みへと向かう誘惑でもあった。主イエスは、それらの誘惑に対して徹底してみ言葉を持って応え、自ら困窮と弱さに留まられるのである。
人生の荒れ野の中にある時、その時は私たちにとって不毛以外の何物でもない。しかし、荒れ野の時、試練の時は、決して無意味な不毛なだけの時なのではない。エジプトを脱出したイスラエルの民が、神が約束した地に辿り着くまでに実に40年もの年月を要した。しかしその長い試練の時を経て始めて、未来への決して消えることのない信仰を与えられたのである。この40年の荒野での生活は、地上を旅するものにとって必要な時であった。その意味で、荒れ野の時を超えてゆくことは神の救いが実現する道筋なのである。
本日の聖書箇所の初めには、「荒れ野の中を“霊”によって引きまわされた」とある。旧約においても、預言者あるいはイスラエルの民が荒れ野へと向かうのは、本人の自発的意思によってではなく、むしろ見えない神の力が彼らを荒れ野へと駆り立てていったのだった。おそらくそれは、彼らにとっては、自分たちが望んでいた将来とは全く異なるものであった。しかし、むしろその望まざる荒れ野での体験を通して、彼らは神の人、神の民として変えられていった。それはまさに、荒れ野での体験を通して、神の業がその人に働いたということに他ならない。
主イエスが歩まれた荒野の日々を憶えるのはイースターの前の40日間に限られることではない。私たちは日々の生活の中で、私たち自身の直面する荒野において、主イエスその荒れ野の中で共におられることに思いを寄せるである。そして、その荒野の時は、決して無駄な、無意味な時なのではなく、私たちが主イエスに出会うための備えの時であるということに気づくのである。私たち自身の荒れ野の中で、私たちは主イエスと出会うことを憶えつつ、四旬節の時を歩んでゆきたい。

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