2013年1月8日火曜日

[説教要旨]2013/1/6「あなたを照らす光」マタイ 2:1-11

主の顕現

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

 教会史によれば1月6日の顕現日が、救い主がこの地上に現れたことを憶える「クリスマス」としてそもそも祝われていたが、やがて新年をはさんだ主イエスの誕生を憶えるこの二つの祝祭が、教会の中に定着することとなった。新しい年の始まりにあたって様々な希望抱く時、私たちは、自分達がクリスマスの光の中にあって、その希望がどこから与えられるのかを思い起こすこととなる。
 主の顕現の日にあたっては、マタイ福音書における主イエスの誕生物語が伝統的に読まれ、クリスマスと同様に、暗闇の世を照らす光がその主題とされてきた。占星術の学者達は星に導かれて、引き寄せられるように地上にその姿を現された王の中の王のもとへと導かれる。しかし最初に彼らが訪ねたのは都エルサレムのヘロデ大王のもとでしあった。たしかに「新たに生まれた王」を求めるならば都の王を訪ねることは理に適ったことである。しかし、権力を誇るヘロデ大王のもとにも、壮麗な神殿の中にも、遠く東の国から旅してきた学者達が求めたものは見いだすことは出来なかった。むしろ彼らが都を離れた時、再び星を見い出し喜びにあふれたのだった。その先で彼らが出会ったものは、期待はずれとも言える、権力からも富からも遠い一人の小さな赤子でしかなかった。しかし彼らは、この小さく弱い存在にこそ、自分たちを闇の中から救い出す光があることを確信する。彼らは、幼子を伏し拝み、彼らが持てる宝を献げるのだった。
 一方で学者達の到来は、ヘロデには不安を憶えさせる。権力も富も無い小さく弱い存在にこそが世を救う光であるという事柄は、ヘロデそして都に住む者達にとっては、自らを脅かすものでしかなかった。彼らの立つ価値観では、人を支配し、奪い取ることによってしか、自らを満たし、平安を守ることが出来なかった。つまりここでは一つの事柄が、一方では喜び拝むことを生み出し、一方では不安と恐怖を生み出す。そこでは、自らの期待し思い描いていたものとは異なる結果の中に喜びと讃美を見いだした者と、自らが拠って立つ価値を譲ることの出来なかった者とが、はっきりとしたコントラストをもって描き出されている。
本日の福音書では、この暗闇の世を照らす救い主は、地上のいかなる力も持ち得ない姿で、私たちの前に現される。それは約束とは違う、期待していたものとは違うものであったかもしれない。さらに、この無力な赤子は、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる。その有り様は、人を支配し奪い取ることでしか自らを豊かにすることが出来ない地上の価値観では、何の意味も持たない。しかし、主イエスの十字架は死で終わることは無かった。主イエスはその死から復活され、絶望と挫折を貫く、朽ちない希望の光を私たちに与えられた。まさにそのことによって、この地上に姿を現された救い主は、この地上の闇の中で生きる私たちを神の光によって照らされるのである。
 まさにその意味で、救い主が与えられたことを憶えるこの季節、主イエスの十字架と復活の光が、新しい年を歩み出す私たちを照らしていることを思い起こす。この光に照らされて、人間の目には挫折と絶望、失望と悲しみしか映らない時であっても、私たちは滅びることのない希望を与えられることを、私たちは知る。

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