2013年1月24日木曜日

[説教要旨]2013/1/20「救いのしるし」ヨハネ 2:1-11

顕現後第2主日

初めの日課 イザヤ 62:1-5 【旧約・ 1163頁】
第二の日課 1コリント 12:1-11 【新約・ 315頁】
福音の日課 ヨハネ 2:1-11 【新約・ 165頁】

教会の暦では、12月末の主イエスの誕生つまり主の降誕の後、年明けを経て、1/6には東方の学者たちが主イエスを訪ねた主の顕現、そして先週は主の洗礼の出来事を福音書の物語を通して憶えてきた。それらは、救い主が私たちの生きるこの世界に与えられたという出来事を、様々な角度から振り返るものであった。そしてまた顕現節においては、いわゆる「カナの婚礼」の箇所が選ばれている。この箇所もまた、教会の古い伝統の中では、救い主がこの世界に姿を現された出来事として憶えられてきた福音書箇所の一つであった。というのもヨハネ福音書の中でこのカナの婚礼での出来事は「最初のしるし」と書かれているからである。それは、ヨハネ福音書の物語の中では、これから始まる主イエスの地上での歩みの幕開けを告げる出来事となっている。そこで主イエスは「水をぶどう酒に変える方である」と語られる。そのことは、私たちに何を伝えるのだろうか。
本日の福音書の物語はいわば、私たちは、過ぎ去ることのない出来事とどのように出会うことが出来るのかを問いかけている。「過ぎ去ることのない事柄」とは、この世に生きる私たちが神に結びつけられた出来事、すなわち主イエスの死と復活の出来事に他ならない。この主イエスの死と復活の出来事に私たちが出会う時、私たちは過ぎ去ってしまうものに翻弄される生から、命の根源である神に繋がれた、揺らぐことのない生へと引き戻される。
ぶどう酒の不足というアクシデントに際して、母マリヤがイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った時、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と応えられる。私たちがこのヨハネ福音書を通して読むならば、十字架に付けられた主イエスが、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」場面に再び出会う。そのことを知る時、主イエスの「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という応えもまた、それが十字架の出来事との関わりにおいて語られている事を知ることとなる。主イエスのまなざしは、神と人とを繋ぐご自身の十字架のみを見つめている。本日の日課の物語での主イエスの視線は、目の前で繰り広げられている婚宴で起こっている不測の事態に向かっているのではない。ここでいうならばぶどう酒の不足というアクシデントこそが、移りゆき、過ぎ去ってしまう出来事なのである。しかし、その過ぎ去ってしまう出来事が、死と復活へと向かう主イエスに出会う時、そこでは根本的な変化が起こる。それは単にぶどう酒の欠乏が満たされるということにとどまらない。主イエスの、死からの復活という出来事の前では、水がぶどう酒に変わるという出来事は「しるし」に過ぎない。水をぶどう酒に変えた力は、過ぎ去るものに心を奪われる私たちを、神へと結びつける力なのである。
ただの水でしかないものを、上等なぶどう酒に変える方は、過ぎゆく事柄によって翻弄される私たちを根底から変えられ、信仰を与えられる方であった。私たちの日常は、さまざまな過ぎゆく事柄によって翻弄されている。しかし、主イエスの死と復活の出来事に触れるとき、私たちは「変わることのない命の根源」に結びつけられる。

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