2013年1月15日火曜日

[説教要旨]2013/01/13「私の心に適う者」ルカ3:15-17、21-22

主の洗礼

初めの日課 イザヤ 43:1-7 【旧約・ 1130頁】
第二の日課 使徒言行録 8:14-17 【新約・ 228頁】
福音の日課 ルカ 3:15-17、21-22 【新約・ 106頁】

 本日は教会の暦では「主の洗礼」と名付けられている。これは、古代アレクサンドリアのキリスト者が1/6に救い主の誕生を憶えて祝うことを始めた時、併せて「主の洗礼」の出来事をも祝ったことに遡る。それは、主イエスの洗礼の出来事にあたって天が開け、鳩のように聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたという出来事が、主イエスが私たちの生きるこの地平に姿を現された出来事と深く結びついたためであった。一方で、罪無き神の子主イエスと、罪の赦しの洗礼とは矛盾であるという考え、またそのような矛盾を抱えることを良しとしない思いも古代の教会の中には根強くあった。しかし本日の福音書は、私たち人間の論理では矛盾するはずの出来事の中に、私たちの論理と思いを越えた何かがあることを伝えようとしている。
 主イエスの洗礼に先立つ、洗礼者ヨハネの公の活動の紹介から続けて読むと、興味深いことに気付く。3:7では洗礼者ヨハネの元に集まって来た時には「群衆」つまり単に「寄せ集め」と呼ばれた人々が、15節で「待ち望む」者として描かれる時には「民衆」つまり「民」と呼ばれるのである。特にルカ福音書は、そこには徴税人や兵士といった、当時の社会の中で排除され敬遠された者たちもやってきたことを伝えている。いわばそこに集まった者たちは、地上の論理や思いでは一つになることなどあり得ないような者たちであった。しかし洗礼者ヨハネによって主イエスの到来を告げられ、それを待ち望む時、人々は一つの「民」と呼ばれるのである。
 そして、そのように待ち望む民のところへ主イエスはその姿を現される。21節「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というルカの描写は、主イエスが、民のそのまさにただ中におられることを伝えている。地上の論理と思いによっては、一つになることなどあり得ないような矛盾したばらばらな人間の集まりの中で、主イエスは人々と共に生き、共に祈られる。それは、洗礼者ヨハネの呼びかけによって集まった人々は、その中心において主イエスが共に生き、共に祈られることを通して、一つの民とされてゆくことを物語る。そしてまさにその主イエスの姿を前にして、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」ことを福音書は伝える。神の愛される御子は、人々のただ中で共に生き、共に祈られる方なのである。
 ばらばらであった群衆は、共に生き共に祈られる主イエスによって一つとなる。しかしその主イエスは、この世の権力や経済力、暴力によって、民をまとめ上げるのではなかった。主イエスは十字架において、ご自身の命を世に生きる者に分かち合われた。命を分かち合って下さるこの方が共に生き共に祈られるからこそ、群衆は一つの民となることができる。つまり、この世に生きるばらばらな私たちが一つの民となることが出来るのは、私たちと共に生きて下さるその主イエスの命を分かちあうからに他ならない。神の愛する子、その心に適う者である主イエスの命は、私たちを分断する様々な矛盾を乗り越えて私たちを結びつけ、私たち自身を神の愛する子、神の御心に適う者とされるのである。

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