2012年12月11日火曜日

[説教要旨]2012/12/9「救いを仰ぎ見る」ルカ3:1-6

待降節第2主日

初めの日課 マラキ 3:1-4 【旧約・ 1499頁】
第二の日課 フィリピ 1:3-11 【新約・ 361頁】
福音の日課 ルカ 3:1-6 【新約・ 105頁】

 本日の福音書には、主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネが登場する。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において人々に悔い改めの洗礼を呼び掛け、これまでの生き方を刷新することを求めた人物であった。本日の箇所の冒頭に登場する最初の7人は、政治・宗教の中心である都や大都市をその本拠地として、支配する側にあって権謀術数を駆使する者達であった。紀元1世紀、ローマ帝国の軍隊と都市部への食料の供給のために農地の大土地所有化が急速に進み、借金のかたに多くの農民が土地を取り上げられ次々と貧困層へと転落してゆく一方で、権力者達は自分達の自らのひたすら自らの権力と利益の維持・拡大だけに目を向ける、そのような時代であった。
 しかしそれに続く二人ザカリヤとその子ヨハネは、先行する7人とは大きく異なっていた。ザカリヤもヨハネも、この二人はいわば歴史の表舞台で利益と権力の維持拡大に躍起になる者達とは全く逆の、周縁に立つ者として福音書に登場する。さらに権力の中心にではなく荒れ野のヨハネのもとに「神の言葉が降った」と福音書は続ける。「降った」と翻訳されている表現は直訳するならば「生じた」とか「起こった」という表現ともなる。いわば、政治権力の跳梁跋扈する中央から離れたこの荒れ野で、神の言葉が洗礼者ヨハネの働きを起こすのである。神の言葉によって起こされた洗礼者ヨハネの働きを、福音書はイザヤ書からの引用をもって説明する。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」洗礼者ヨハネは、腐敗した権力を厳しく批判し、世の人々に悔い改めを呼びかける。それは、権力の高みを目指し自らの縄張りを守ろうと壁を張り巡らす者たちの企みを削り取り、曲がりくねった道をまっすぐに、平らにする働きであった。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身は、その働きを全うすることは出来なかった。その呼びかけのあまりの厳しさゆえに、彼は捕らえられて処刑されることとなる。ならばヨハネの働きは無意味なものでしかなかったのだろうか。イザヤの預言は語る。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」。これらの働きが受け身形で語られているということ、その働きはただ洗礼者ヨハネのみの力によってではなく、神ご自身によって成し遂げられることを物語る。洗礼者ヨハネが呼びかけた悔い改め、それはやがて到来する主イエスによって「救い」の実現へとつながってゆく。救いの実現、それはまさに神が成し遂げられる事柄であった。
 聖書が語る希望とは何かが実現することを信頼することである。しかし、それは神の約束に従って実現するのであって、私たちの願望にそって実現するのではない。だからこそ真の意味で希望を持つ者は、たとえ自分の思う通りに事がが成し遂げられなかったとしても待ち望み続けることができる。自分の願いを手放そうとする時のみ、私たちの期待を超えた全く新しいものが起こされることを聖書は語る。洗礼者ヨハネと同じく、このアドベントの季節に私たちもまた救いを仰ぎ見る。自らの思いを越えて私たちの間に神の意志が実現することを待ち望みたい。

0 件のコメント: