2012年12月18日火曜日

[説教要旨]2012/12/16「メシアを待ち望む」ルカ3:7-18

待降節第3主日

初めの日課 ゼファニア 3:14-20 【旧約・ 1474頁】
第二の日課 フィリピ 4:4-7 【新約・ 366頁】
福音の日課 ルカ 3:7-18 【新約・ 105頁】

 待降節の間、アドベントクランツに火が点る度に救い主イエス・キリストがこの世界へと近づいていることを私たちは思い起こす。それはいわば、聖書の民が救い主を待ち望んだその長い歴史の歩みを追体験することでもある。時代の荒波の中で々争乱と困窮に翻弄されつつ、救いと解放を待ち望むことは私たち人間全ての願いでもある。
 本日の福音書は、先週の日課に引き続いて洗礼者ヨハネの言葉が語られる。ヨハネの大変厳しい言葉を受けて、人々は全く新しい生き方へと歩み出そうと「では、わたしたちはどうすればよいのですか」とヨハネに問いかける。あれほどまでに厳しい言葉によって呼びかけるのだから、これまでの生活とは全く異なるような生活ができるような何かを、ヨハネは示すだろうと人々は期待したのではないだろうか。しかしヨハネの答えは、新しい生き方を瞬く間に実現するような、誰も知らないような秘密の教えではなかった。それはただ、それぞれの日常の中で自らが満ち足りることよりも分かち合うことに、得ることよりも与えることにより大きな意義を見出すように、厳しく徹底して求めるものでしかなかった。それはいわば、どのようにして人は待ち望む民として自らを形作るのか、そのためにどのような努力が必要なのか、を徹底して語るものであった。そして人々は、待ち望むあの存在はこのヨハネではないかと期待する。しかし、ヨハネは人々のそうした期待を否定し、自らが救いと解放をもたらす存在ではないことを人々に伝える。それは実に、真の救いと解放とは、人が自らの努力によって到達し獲得出来るものではないことを物語る。
 ヨハネが語ったように、それぞれの日常の中で分かち合うこと・与え合うことが真に意味あるものであることを、確かに私たちもまた知っている。しかしまた、その実践がいかに困難であるか、またそのためにどれほどの痛みに耐えなければならないかもよく知っている。だからこそ、厳しく徹底してその呼びかけが為されれば為されるほど、それを十分に為すことの出来ない自分に絶望し、救いと解放とが遠ざかることを悲しむしかないのである。
 しかし聖書の語る真の救い主は、その救いを携えて自ら私たちのもとへとやって来られる。たとえ私たちが、自分自身に絶望し悲しむしかないような弱く足らざる存在であったとしても、その私たちのところに救い主は与えられるのである。そのような私たちのところに主イエスは与えられ、その十字架によってその命を私たちに与えられたのである。だから私たちはもはや主イエスの命を生きるものなのである。
 私たちが、救い主を待ち望む民となることができるのは、私たちが、自分のなしたことを自信満々に正しいこととして誇ることができるからなのではない。弱く足らざる者でしかない私たちのところに、救いと解放が与えられることが約束されているからこそ、なおかつ、私たちに主イエスの命が与えられているからこそ、私たちは待ち望む民として歩み続けることができるのである。そうであるからこそ、たとえそれが不十分であったとしても、私たちは自らの日常の中で、分かち合うこと・与え合うことを真に意味あるものとして生きることができるのである。このアドベントの時、主イエスの命を生きるものとして、救い主を待ち望みつつ歩みたい。

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