2012年12月26日水曜日

[説教要旨]2012/12/23「幸いな者」ルカ1:39-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 ミカ 5:1-4a 【旧約・ 1454頁】
第二の日課 ヘブライ 10:5-10 【新約・ 412頁】
福音の日課 ルカ 1:39-55 【新約・ 105頁】

 クリスマスが祝日ではない日本では、多くの教会がクリスマスの直前の日曜にクリスマスを憶えて祝う。私たちもまた、まもなく来るクリスマスの時を待ち望みつつ、また同時に、私たちのもとに主イエス・キリストが与えられた出来事を喜び祝いつつ、この礼拝に集っている。
 いわゆるクリスマス物語と呼ばれるルカによる福音書の冒頭部分では、ザカリア、エリサベト、マリア、シメオンといった、「待ち望む人々」について語られている。彼らはそれぞれの場所で神の約束が実現することを確信しつつ、今は隠されていることがやがて必ず明らかとなるという信念に満たされて、それぞれの状況を生き抜く。さらに彼らの誰一人として、自分達の行く末について確定した結論を持ってはいない。いわば、自分達の行く末の全てを神に委ねつつ、しかし約束の実現への確信を持ちつつ、待ち続ける。
 現代に生きる私たちは皆自分の願望に絡み取られ、その願望を実現させるために未来を思い通りにコントロールし、限られた方向にだけ進むことを願う。しかしそれが実現しない時、私たちを待ち受けているのは失望でしかない。それに対して、ルカ福音書のクリスマス物語が伝える人々は、あらゆる未来に対して開かれた態度で、神の約束の実現を確信し続ける。まさにそうであるからこそ、彼らは待ち望み続けることが出来るのである。
 ならばどのようにすれば、私たちは、未来に対して開かれつつ約束の実現を待ち望むことができるのだろうか。本日の福音書では、神の約束を告げられたマリヤの訪問とその挨拶を受け入れた時、エリサベトは自らのうちに、神の約束が実現しつつあることを確信する。彼女たちが出会い、神の約束の言葉を告げ合ったことによって、二人は喜びに満たされ、その喜びを分かち合う場が創り出される。そこには信仰の共同体の一つのひな形を見ることができる。私たちは、自分達に未来が拓かれることを願いつつも、自分達の空虚さに嘆いている。けれどもそのような私たちが互いに出会い、神の約束を告げ合う時、私たちは自らのうちに既に何かが始まっていることを知ることができる。神の約束のもとで共に過ごし、互いの間に起こっていることを分かち合い、受け入れ合うこと。それこそまさにキリスト者が集うことの意味に他ならない。
 この後にエリザベトとマリヤの息子達が辿る運命を人間的な価値観から見るならば、それは悲惨なものであり、彼女たちの喜びは空虚なものでしかない。しかし私たちは、その喜びの言葉がただ彼女たちだけのものではないことを知っている。主イエスが私たちのもとに与えられるその道筋をヨハネは整えた。その主イエスはその十字架によって私たちにその命を与えられた。そして主イエスの命を私たちは生き、主イエスの復活によって与えられた神の救いの約束の内に私たちは今歩んでいる。だからこそ今私たちは、神の約束の下に集い、その喜びを分かち合っている。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。それは今ここに集う私たち自身の言葉でもある。今日、待降節最後の主日を迎えた私たちは、主イエスを待ち望みつつ、同時にまた、私たちのうちに既に始まっている出来事、私たちが主イエスの命を生きている「幸いな者」であることを互いに告げ合い、喜び祝うのである。

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