2011年12月6日火曜日

[説教要旨]2011/11/27「キリストの到来に備えて」マルコ13:24−37

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 64:1−8 【旧約・1166頁】
第二の日課 1コリント 1:3−9 【新約・ 299頁】
福音の日課 マルコ 13:24−37 【新約・89頁】

十字架で処刑された男・ナザレ出身のイエスが生ける神・救い主であるという、この逆説こそ、苦しみと悲しみに満ちた私たちの生の中に伝えられた福音であり、教会の宣教の中心であった。しかし、やがて時が流れ、イエスが神であることを強調するあまり、この世界に現れたのは、幻のような神の仮の姿であるといった理解が生まれてくるようになる。葬られたはずの墓が空であったことを説明するためには、この理解はたしかに都合の良いものであった。しかし、教会の伝統は、そうした理解を斥けた。それは主イエスが、私たちと変わらぬ一人の人間としてこの世に生を受け、そしてこの地上を歩まれたということが、福音にとって欠く事の出来ない点であったからである。主イエスが生ける神であることを伝えた教会は、クリスマス、すなわち「主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に一人の人として到来された事」を憶える時を持つ事となった。
キリスト教では、救い主であるイエス・キリストが、私たちのこの世界へとやってくることをこの季節に憶える。北半球では毎週アドベントクランツのろうそくの光が増えるにつれて、逆に外の闇はますます濃くなっていく。私たちの周囲を取り囲む闇がその力を増してゆく中で、私たちの生きるその闇のただ中に与えられた光、救い主キリストの到来を私たちは憶える。
本日の福音書で主イエスは十字架の地であるエルサレムにおいて、いわばその死を目前にして、告別の辞とも言える教えを語っている。しかし、その締めくくりである本日の箇所では、「人の子がやってくる」ということが語られる。ここで「人の子がやってくる」ということ、それは主イエスご自身が再び到来されるということであった。つまり告別の辞は、再会の約束によって締めくくられるのである。しかもその再会は、闇の力の支配するこの古い世が終わる時、つまり神の国がこの地上に完成する時に実現すると語られる。
これからまさに、十字架という、人としての痛みと絶望の極みへと向かおうとする時に、主イエスは神の国の完成とご自身の到来を語る。それは、救い主・イエス・キリストは、私たち人間の痛み・苦しみ、悲しみ・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝ち、光をもたらされ、神の国をそこに打ち立てる。そのためにこの地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。
主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。主イエスがこの世界のその闇のただ中に踏み込み、その闇を打ち砕かれる。それは滅びる事のない約束の言葉として、私たちを今も支え、励ましている。
私たちは今、主イエスの到来に備える、アドベントの時を迎えている。それは単に、過去の出来事を思いだし記念しているだけなのではない。私たちは今まさに、主イエスが、私たちを取り巻く闇の中に到来されることを待ち望んでいる。私たちを取り巻く、ますます濃くなってゆくこの闇の中で、私たちが主イエスの言葉によって励まされ、支えられてゆくこと。それこそがまさに、主イエス・キリストの到来に備えることなのである。

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