2011年12月6日火曜日

[説教要旨]2011/12/04「主の道を整える」マルコ1:1−8

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 40:1−11 【旧約・1123頁】
第二の日課 2ペトロ 3:8−15 【新約・ 439頁】
福音の日課 マルコ 1:1−8 【新約・61頁】

アドベントクランツの2つめのロウソクにも火が灯された。クリスマスの出来事は私たちの元に確実に近づいてきている。クリスマスという出来事とは、神は遠くにいてわたしたちの苦しむのを眺めているのではなく、そこにかかわり、人の喜びも苦しみもすべて味わうために、この地上において人となられたということである。その神の子をわたしが迎える時、私たちが自分の居場所、自分の持ち物、自分の好むもの、自分を満足させるものを手放し、それを誰かのために、普段自分にとっては関わりがないような、自分から離れた遠い存在であると思っているような、そうした人々のために献げ、分かち合う時、そこに救い主を迎える道が、場所が造られてゆくのである。
マルコによる福音書の冒頭には、いわゆるクリスマス物語は収録されていない。代わりに「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という一言が語られた後に、洗礼者ヨハネが神の子救い主の到来を告げる。いわばこの一言によって、クリスマスの意味を凝縮しているのである。救い主がこの世に与えられたという出来事、それはこの世に生きる全ての民に告げられた良い知らせ、すなわち「福音」の始まりなのである。洗礼者ヨハネは、この福音のために「主の道を整える」ことを呼びかける。この呼びかけに応えて「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとにきて、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とマルコ福音書は報告している。ルカ福音書3章では、より厳しい洗礼者ヨハネの活動と言葉が収録されている。「(10)そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(11)ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。」洗礼者ヨハネによる悔い改めの呼びかけ、それは自分を満たすことを断念し、誰かのために分かち合うことの呼びかけであった。
しかし、洗礼者ヨハネはさらに「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語る。洗礼者ヨハネの悔い改め呼びかけは、福音そのものではなかったのである。私たちが自分の行為の成果、その正しさの評価だけを目に留めるならば、それはいずれ、形式化された規則となり、それはまた新たな抑圧を生み出してしまう。だからこそ洗礼者ヨハネは、彼の呼びかけの先には救い主、主イエス・キリストがあるということを語る。私たちが自分自身を断念し、誰かのためにそれを分かち合うということ、それは、人の目に正しく映るためでも、人の基準によってその合否が計られるためでもない。それは、ただ主イエスを迎える、その道を、その場所を、私たちが備えるためなのである。
クリスマスの近づくこの時期、町はきらびやかな装飾で満ちる。しかし、本当の意味で、クリスマスを迎える準備とは、美しく、自分の好みに合わせて、自分の空間を満たすことなのではない。自分を満たすのではなく、遠い誰かのためにそれを用いていく。それこそが、救い主を迎えるその道を整えることなのである。

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