2011年11月15日火曜日

[説教要旨]2011/11/13「天の国に生きる」マタイ5:1-12

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 26:1-13 【旧約・1099頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・ 479頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・6頁】

この秋の日、私たちは召天者記念礼拝として、ここに集っている。季節が秋から冬へと向かう中、私たちは様々なものが自分のまわりから失われていく事に気付かされる。冬が訪れた後には、命の枯れ果てた景色だけが私たちの目に映る。しかし、たとえ私たちの目にはそうは見えなかったとしても、私たちの目からは隠されたところで、新しい命は芽生え、やがて来る春の時を待っている。むしろ、命は私たちの目に見えるところからやってくることはない。
キリスト教の復活信仰は、私たちの命がそこから与えられるところの、私たちの目からは隠されている世界に、希望を確信することである。そもそも私たちは、自分自身の命ですらそれがどこからやってきたのかを我が目で確かめる事はできない。いわば私たちの命そのものは、目に見えないものによって創り出されている。
本日の福音書で主イエスは、弟子たちに向かって語る長い「山上の説教」の端緒として「神の民とはどのようなものであるか」を語る。そこでは語られるのは、神の民の「至福」であった。しかしそれらは実は皆、神の民が現に今この地上においては様々な悲しみ・痛み・窮乏・困惑のうちに置かれていることを前提としていることに気付く。痛みや苦しみ、悲しみや絶望、そうしたものの中に、現に今、神の民は生きなければならない。しかし、主イエスはそのような、苦境の中にある者に向かって「幸いである」「その人たちは慰められる」「満たされる」と断言される。論理的にはそんなことが起こるはずがない、希望の芽などどこに見出せない。この地上に生きる私たちは、自分の知りうる領域のみを見て、そのように語らずにはいられない。
しかし、主イエスは「天の国はその人たちのものである」と断言される。たしかに、私たちの見える領域においては、ただ全てが失われた、死の支配する冬の時だけしか見出せないかも知れない。しかし、私たちに隠されたところ、私たちの命がそこから与えられたところ、私たちの命の造り主である神がおられるところ、そこには新しい永遠の命がある。そこにこそ、神の民の希望がある。主イエスは、そう語られるのである。
そして、その言葉が真実である事を、主イエスはご自身の十字架からの復活によって私たちに示された。十字架の磔刑とは、まさに痛みと、悲しみ、絶望と困惑のその極みの中で、人として持てるその全てを失うということに他ならない。しかし全てを失われた主イエスは、新しい永遠の命において復活された。それは、私たちが現に今置かれている、あらゆる困窮・悲痛も、この主イエスの復活によって示された、新しい永遠の命に勝つ事ができないことを告げる。私たちの命を削り取っていく、悲しみ・絶望・困窮を圧倒する真の希望、それは、私たちの目には隠された、けれども私たちに約束されている、神の国、天の国から与えられる。
先に天に召された方々は、たしかに私たちの目からは隠されているかも知れない。しかし、命の源である神の国において、私たちは共に永遠の命に結びあわされている。今なお地上に残された私たちも、主イエスが語られる「幸いである」の言葉を受けつつ、地上での命を生き抜いてゆきたい。

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