2011年3月23日水曜日

[説教要旨]2011/03/20「皆に仕える者に」マタイ20:17-28

四旬節第二主日

初めの日課 創世記 12:1-8 【旧約・15頁】
第二の日課 ローマ 4:1-12 【新約・278頁】
福音の日課 マタイ 20:17-28 【新約・ 38頁】

 パウロの手紙の中には、この世を去ってキリスト共にいることを願うことが度々言及される。その意味で、神の国においてキリストに近くあることは全ての信仰者求める事柄であった。しかし、二人の息子の母親が主イエスに願ったことは、この地上の世界における特権への願いであった。働きに応じた報酬を望むという点で、この母の願いは、ある意味では極めて現実的で合理的なものであった。しかしそれに対して主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と応えられるのであった。
 この主イエスの言葉は、あたかも他の弟子たちを抜け駆けしようとした二人への戒めであるかのようにも読み取ることができる。しかし、その主イエスの言葉は、決してこの二人の兄弟およびその母親に向けてのみ語られたわけではないことが、前後の文脈から推測される。なぜならば、この願いを聞いた残りの弟子たちは、「この二人の兄弟のことで腹を立てた」とあり、その上で二人だけに対して語るのではなく、一同を呼び寄せて言われているからである。この二人の願いに対する、その他の弟子たちの怒りの反応は、至極全うなものであるように、私たちには思われる。しかし、現に今集まっている者たちの間での上下関係、権力関係が問題となっており、誰が正しくて誰が間違っているか、誰の言うことに従わなければならないのか、ということで争う限り、主イエスに視点から見るとき、他の弟子たちをよりも優利な立場に立つために抜け駆けする二人の兄弟も、それに対して怒りを覚えて批判する者たちも、同じ次元に立つ者でしかなかったのである。
 そうであるならば、主イエスが「皆に仕える者になり」と語られる時、その「皆」とは誰のことなのだろうか。主イエスは、弟子たちの間での「皆」をもはや問題にはしていない。その「皆」とはいわば、今はそこにいない者たちのことである。主イエスは、弟子たちのためだけに、十字架の道を進まれたのではなかった。同様に、弟子たちもまた今は自分の目の前にはいない者のために仕えることが求められている。そしてそのように仕える者であるときこそ、主イエスは最も近くにおられるのである。私たちにとっての、真の喜びとは、私たちが他者に関わる時の喜び、自分がその人の命、生きることのために用いられることの喜びなのである。それは、決して減ることも消えることのないものなのである。そして、主イエスはご自身の十字架によって、そのことを私たちに示されたのであった。

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