2011年3月3日木曜日

[説教要旨]2011/02/27「岩の上の家」マタイ7:15-29

顕現節第9主日

初めの日課 申命記 11:18-28 【旧約・299頁】
第二の日課 ローマ 1:8-17 【新約・ 273頁】
福音の日課 マタイ 7:15-29 【新約・ 12頁】

 本日の福音書は二つの部分から構成されている。前半部分は「偽預言者」についての警告が語られ、後半はいわば「山上の説教」全体の締め括りとして語られている。
 22節では「かの日」つまりこの「世の終わり」の時、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』という多くの者が主イエスによって、偽物として拒絶されることが語られる。しかし、ここで成果として挙げられている事柄はいずれも主イエスの働きにも比する特別な能力ばかりであり、むしろ評価されるべき事柄であるようにすら思われる。しかしそれが救いの根拠となることが明確に否定されているのである。つまり、こうした特別な働きと成果が救いの条件とされているわけではない。山上の説教の多くの教えと同様に、それまで誰もが当たり前であると考えるような地上の価値観に対して、主イエスの言葉が対置されている。しかし、そうだとするならば、一体何を主イエスは求めておられるのだろうか。
 本日の箇所の最後で、人々は主イエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ことを驚きをもって受け止めたことが語られている。「律法学者のように」とは、伝統と前例をもとに、このことはこれこれこのようにすべきであるとする解釈の方法である。もちろんそうした方法は合理的であり、伝統を保持するためにきわめて有効である。しかしだからこそ、主イエスが、前例や伝統に基づく以上に、ご自身に与えられた権威を元にして、多くの「しかし、わたしは言っておく」を語られたことに、人々は驚いたのである。この主イエスの権威とは、神がこの世を救うために主イエスをこの地上に与えられたということであった。そして、主イエスがこの世を救うということ、それは主イエスが人々を癒し、教えつつ、なによりも十字架の低みと苦しみへと向かわれたということ、そしてさらに、その苦しみの先に、復活の命を示されたということに他ならなかった。
 主イエスは山上の説教全体を締めくくるようにして、「これらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と語られる。主イエスが語られた「これらのこと」、それは十字架へと向かう主イエスの言葉に他ならない。それを聞いて行うということは、決してあたかも主イエスと同じように、奇跡的な業や権威的な教えを語ることなのではない。むしろそれは、思い悩むことなく地上ではなく天に宝を積み、人を裁くことなく敵を愛すること、地上においては愚かとすら見なされ、価値無きことと見なされるようなことであった。しかし主イエスは語られる。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(24:13-14)
 岩の上に家を建てるということ、それは決して私達がこの地上において考える常識や価値観を揺るぎなくせよということなのではない。むしろ、この世において無価値であるかのようにすら思われる、主イエスの言葉に信頼し希望をおきつづけることなのである。そして、その信頼は決して裏切られることはない。パウロは語る。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)

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