2011年3月11日金曜日

[説教要旨]2011/03/06「主イエスは近づいて」マタイ17:1−9

変容主日

初めの日課 出エジプト 34:29−35 【旧約・152頁】
第二の日課 2ペトロ 1:16−19 【新約・436頁】
福音の日課 マタイ 17:1−9 【新約・ 32頁】

 本日の福音書は「主の変容」と呼ばれる出来事が記されている。この出来事は福音書の中で語られる様々な物語の中でも、現代人にとって非常に理解しにくいものの一つである。端的に言えば、現代人にとってそれは「夢」か「幻」のようにしか思えないからである。しかし実は、この変容の物語以上に理解できない出来事が、福音書の中にはもう一つある。すなわち、主イエスの復活の出来事である。実はこれらの出来事は、決して現代人にとってのみ理解不能なのではなかった。聖書の時代においても、同じようにそれは理解不能の出来事であったことについて聖書の内外に証言がある。しかしそうであるからこそ、これら、変容と復活という二つの出来事はその根底においてつながっているということがわかるのである。それらは、いずれも私たち人間の世界において常識として考えられていることの外側からの力が、私たちの世界に及んできた出来事である。それは私たちの論理を超えた出来事であるので、確かに私たちはそれを科学的・合理的に説明することは出来ない。しかしそれは実は、なぜ私たちにそもそも命が与えられているのか、自分はなぜ生かされているのか、そのことを私たちは説明することが来ないということと同じなのである。たとえ私たちが合理的に生命のメカニズムを説明することは出来たとしても、生命の意味そのものを知ることは私たちには出来ないのである。キリストの変容と復活ということ、それはいわば、命の創造と終わりと同じように、神の愛と恵みの業なのである。
 光り輝く姿に変えられた主イエスは、ひれ伏して恐れるペトロらに近づいて「起きなさい。恐れることはない。」と語りかけられる。私たちは、自分ではコントロール出来ないこと、自分の予期しない、期待しない出来事に遭遇する時、茫然とし、そして不安と焦燥の中で恐れおののいてしまう。私たちに出来ることは、縮こまりただ地に倒れ伏すことだけである。しかし、主イエスは私たちのもとに近づいてこられた。それは神の愛と恵みの業が自ら、恐れ倒れ伏している私たちのもとに近づいてこられるということなのである。
 たしかに私たちは変容を、復活を、あるいは人の命の意味を理屈では説明することは出来ないかもしれない。しかし、恐れ倒れ伏す私たちに「起きなさい。恐れることはない。」と語りかけられるために、主イエスが私たちに与えられていることだけは確かに知っているのである。私たちに呼びかけ助け起こされる方は、十字架の死という動かしがたい絶望を、復活の出来事によって打ち破られた主イエスなのである。
 今週から主の受難とそして復活とに備える四旬節を迎える。私たち自身の恐れと不安を、主イエスがその受難と復活によって打ち破られたことを覚えつつその時を過ごしてゆきたい。

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