2011年1月5日水曜日

[説教要旨]2011/1/2「光は昇る」マタイ2:1-12

顕現主日・新年礼拝

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・ 2頁】

1月6日はキリスト教では伝統的に「顕現日」(エピファニー)と呼ばれている。古代エジプトではこの日に太陽神の祭儀がナイル河畔で行われていた。その後、初期のキリスト教はこの習慣を、主イエスのヨルダン川での洗礼を祝うために利用した。それは、主イエスの洗礼をキリストの受胎と誕生すなわち受肉と結びつけて理解したからである。その伝統を受けて東方教会では、この日をキリストの誕生日(降誕日)としていた。西方教会では後に12月25日を降誕日すなわち受肉の出来事を憶える時とし、1/6は東方の占星術師たちの到来と顕現、すなわち主イエスの存在が世に明らかとなっていく出来事を結びつけていくこととなった。
降誕においては神が低みへと下ることが主題となるとすれば、顕現は、低みに下るキリストの支配を強調する。それは神の支配が主イエスにおいてこの地上に姿を現したこと、「王の中の王」としてのキリストを憶える祝祭の時であった。またさらに、教会の伝統の中では、王としてのキリストという主題と共に、「光」が主題となってきた。主イエスにおいて現された神の支配は、世を隅々まで照らす光であり、また信仰者一人一人の魂をも照らし、その生活の中に希望と喜びを与える光として受け止められてきた。降誕によって始まった救いの出来事が、この地上において顕現し一人一人の魂へと行き渡ってゆく、いわば救いの歴史の実現を、この間に体感したのである。
顕現にふさわしく選ばれたイザヤ書60章は、光について語る。補囚から解放されたイスラエルの民は、荒廃した故郷を前にして、ただただ嘆き悲しむことしか出来なかった。しかし、そのような無力で為す術をもたない民のところに、光は昇り、その魂の闇の隅々までも照らし、自分たちをとりまくいかなる困難も、神の愛と慈しみに優るものではないことを、悟らせるのであった。
福音書において、東方の占星術の学者達は、星の光に導かれて、幼子イエスに出会う。彼らを照らし導いた光とは、一体彼らの何を照らす光であったのだろうか。占星術とは、世界で起こる、私達の期待を裏切る様々な事柄を、自分たちの理解できる仕方で秩序付けるものである。天変地異、飢饉、戦争、そしてそれによって引き起こされる様々な悲しみと苦痛を、星を用いてその原因を説明し計算し、より良い暮らしを実現することを求める。たしかに、彼らは星の出現によって、「王の中の王」がこの地上に与えられたことを知り、その王に近づこうとする。しかし、彼らにはその光の意味が分からず、ヘロデ大王の待つ宮殿を訪れる。権力の中枢にあったものは、むしろこの世に闇を生み出す力であった。王の元を離れた学者達は、無力で非力な幼子に出会う。しかし、その時彼らは喜びに溢れたのであった。
幼子イエスによって顕現した神の支配、それはこの世における力とは真逆の仕方で、この世界を照らす光であった。なによりも、ご自身の十字架の死と、その死からの復活の出来事によって、この地上において迫り来る苦難に対して非力で為す術もない私達に、それに優る神の愛の支配する世界を開かれたのであった。闇の中を歩む私達に、今も昇る光は届いている。

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