2011年1月11日火曜日

[説教要旨]2011/01/09 「天が開いた」マタイ3:13-17

主の洗礼日・顕現節第2主日

初めの日課 イザヤ 42:1-7    【旧約・ 1128頁】
第二の日課 使徒 10:34-38   【新約・ 233頁】
福音の日課 マタイ 3:13-17   【新約・ 4頁】

 主の洗礼日は、教会の歴史の中では降誕・顕現の出来事の一環として、神がこの世に受肉したことを憶える時として守られてきた。それは本来天にある神の愛と慈しみが、私達人間の生きるこの地上の世界において結実した出来事であった。
 イザヤ42章では「主の僕の召命」の預言として次のように語られている。(1)「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。」それは、本日の福音書で「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」という場面を連想させる。事実、マタイ福音書は12:15-21において、このイザヤ42:1-3を引用して、主イエスの地上での働きについて語っているのである。しかし預言において「国々の裁きを導き出す」とあるにも関わらず、福音書で語られているその働きは、人々の病を癒し、天の国について人々に伝えるものであり、そして十字架の死へと向かうものであった。実は、おなじくイザヤ42:6には次のように書かれている。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。」ここで「恵み」となっている言葉は本来は「義」「正しさ」という意味のものである。神の義、それはただ人を裁き罰するものなのではない。それはむしろ神の愛と慈しみと等しいものなのである。
 ヨハネの問いかけに対して、主イエスはマタイ福音書における最初の言葉を語られる。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」主イエスは、ご自身の洗礼の出来事を「正しいこと」すなわち「義」と語られている。それはまさに、この出来事が神の義の出来事、すなわち、神の愛と慈しみの出来事であることを意味しているのである。そして水から上がられた主イエスに神の声が届く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。それは、私達人間と同じ地上に生きた、このイエスという一人の人において、神の愛と慈しみが結実していることを伝える言葉であった。
 「天が開く」という、大スペクタクルとも言うべき表現に続いて、主イエスが主の僕としての地上でのその使命を聞く様子を、福音書は主イエスの目線から物語る。それは、私達が生きるこの地上からの目線でもある。主イエスは、ご自身が何者であるかということを、私達と同じ地平から聞くのである。それは、自分は何のための生まれ、生きる者であるかということを、私達はただ神から聞いていくのだということを私達に伝える。
 主イエスがこの地上を歩まれたことによって、天が開き、神の愛と慈しみはこの地上に実現した。そうであるからこそ、この地上に生きる私達は、神の愛によって呼び出され、語りかけられ、自分自身が何者であるかを知ることが出来るのである。

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