2010年8月18日水曜日

[説教要旨]2010/8/8「神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 コヘレト 2:18-26 【旧約・ 1036頁】
第二の日課 コロサイ 3:5-17 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・  131頁】

「自分らしく生きる」ことは、今日の教育の商品価値でもある。しかし「自分らしさ」とは何であろうか。自分の思うままに、自分の人生をコントロールできること、そのために必要な資源を思うままに消費できることが、「自分らしく」生きることなのであろうか。もしそうであるならば、富むこと、力を持つこと、それを追求することのできる強いエゴを持つことこそが「自分らしく生きる」ためには不可欠であるということになる。そして、そのような者として生きることに価値を見いださせることが、「自分らしく生きる」教育の目的ということになる。
本日の福音書の日課は、主イエスが、大勢の群衆達を前にしつつ、「まず弟子たちに話し始められた」(12:1)中での出来事として語られている。それは、「主イエスの弟子であること」の本質を伝える重要な機会であった。しかし、この弟子たちへの教育は、群衆から遺産を巡る調停についての判断を求められたことによって中断する。この問いかけに対して主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と厳しく反応した後、「所有」に関する教えを34節まで語られる。従ってそれは直接には群衆からの問いかけに応えているが、それはあくまでも、弟子たちに対して「主イエスの弟子であること」の本質を伝える文脈の中にあると言える。それは、主イエスに直接したがった、2000年前の「弟子たち」に対して語られた言葉でありながら、同時に今聖書を前にしている、「読者」である私たちに対して向けらられた言葉でもある。主イエスは私たちに対して、「所有」すること、すなわち、富むこと、力を持つこと、それを追求することと、主イエスの弟子であることの関係を語っているのである。
「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。この金持ちは、自分の有り余る資産をどのように自分の手元に留めておくかについて腐心する。それは自らの所有する物によって、自分自身の人生を確かなものにし、自分自身の人生の行く末を自分でコントロールすることが出来るようになるためであった。それはいわば、この金持ちにとって、自分自身の思い描く未来を実現するために、彼が「自分らしく生きるため」の道筋であった。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ」という呼びかけが投げかけられる。「今夜、お前の命は取り上げられる」。つまりこの金持ちが、どれほど自分自身の人生をコントロールし、「自分らしく生きる」ことを求めたとしても、それは彼が自分の命をコントロール出来るということなのではないのである。人は誰一人、自分自身の命をコントロールすることなど出来ない。私たちはただ命の創造主である神から命を与えられて生かされている存在に過ぎないからである。
「お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」。神によって生かされている私たちにこの問いかけは投げかけられている。「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」(33節)と主イエスは語られる。主イエスはご自身の命を私たちの救いのために用いられた。その主イエスの弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが自らを他者のために用いていくことなのである。

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